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 渡部 朋子(中)  信念 ヒロシマから学ぶ


小学校低学年のころ、自宅の庭に筆者(左)が育てたトウモロコシの前で

わたなべ・ともこ

1953年広島市中区生まれ。法律事務所の事務局長を務める傍ら、広島の市民や子どもたち、広島を訪れる海外の研修生などを対象に、国際理解や平和教育の実践に携わってきた。NPO法人ANT―Hiroshimaを89年設立し、代表理事。平和を願う人たちの支援を続け、2002年からはアフガニスタンの難民支援、05年からはパキスタン・カシミール地方の地震復興支援にも力を注いでいる。広島市教育委員。広島市安佐南区在住。

私は1953年、原爆投下8年後の広島で、被爆者の両親の間に生まれました。はなをたらし木に登ったり川で遊んだりする子どもたちの中にあって、私は「三度のご飯より本が好きな子」でした。総勢15人にもなる大家族の中で育った私は、その関わりの中で家族の絆や人を思いやる心の大切さを知りました。そんな環境と大好きな読書も影響したのか、「誰かの役に立つ人」に強く憧れるようになり、将来は「無医村の女医」になりたいと考えていました。


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子どものころの広島には戦争と原爆の傷あとがいたるところに残っていました。戦争で負傷した軍人さんが食べるのにも困っている姿を見かけたこともあります。学校では原爆について学ぶ機会もなく、悲惨な状況が日常にありすぎて私たちはそれに慣れきって生活していました。

私が20歳の時、農作業中に脳出血の発作を起こした祖父が目の前で亡くなりました。身近にいる大切な人の死によって深い衝撃を受けた私は、それをどう受けとめればよいのかわからず、悲しみを言葉にできないまま考え続けました。「私がここに生きているということはどういうことなのか」と考えるようになり、生の意味について自分に問いかけるようになったのです。この時初めて、私は被爆者の両親から広島で生まれたことを意識しました。


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原爆が投下された時、私の父は27歳、母は15歳でした。広島駅の列車の中で被爆した父は頑丈なよろい戸のおかげでやけどを免れ、日赤の看護学校に通っていた母は原爆が落ちるととっさに机の下にもぐりこみ奇跡的に助かりました。被爆当時のことをほとんど語らなかった父ですが、所有していた油をやけどで苦しむ被爆者の治療用に配った話を記憶しています。「仕方がない、ただ前に向かって生きるだけだ」という言葉は今でも私の心に焼きついています。

母もまた自分の体験についてあまり触れませんでしたが、大学生の私が米軍の爆撃調査団の記録フィルムを借りて上映会を行ったころから、少しずつ話してくれるようになりました。がれきの中から助けだせなかった級友のこと、日赤病院の玄関の前で息絶えた女性の胸の中で泣き叫ぶ赤ん坊のこと、炎に包まれた病室から寝たきりの患者さんを運びだしたこと、不眠不休で被爆者の救援活動にたずさわったこと…。母の体験は聴くたびに私の心に染みわたっていきました。

両親を含め周囲の人々が体験した話を聴いているうち、原爆とは何なのか、ヒロシマという言葉は何を意味するのかを知りたいと強く思いはじめました。そして、卒業論文にまとめたいと考えました。広島のまちを歩きまわり、ヒロシマの歴史をつくった方々から話を聴き、多くのことを教えられ、彼らの生きざまを通して、苦悩に耐えて生き抜く勇気と諦めない強い信念を学びました。

ヒロシマを知れば知るほど、それが大きく深いものであることに気づかされ、一生かけて向きあいたいと思うようになりました。私がさまざまな社会活動を行う大きな動機は「誰かの役に立ちたい」という強い気持ちとヒロシマなのです。

 
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