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貧しくて司祭館に泊めてもらっている子どもたちとチェッカーをして遊ぶ筆者(1981年2月、ブラジル・パラナ州アモレイラ市) |
1953年大阪市生まれ。幼少期から高校卒業まで呉市で過ごす。上智大文学部哲学科を卒業後、78年にブラジルに移住。神学を勉強し、リオデジャネイロ州やパラ州(アマゾン地域)でカトリック教会の司祭などとして働く。91年に帰国。広島なぎさ中学・高校で社会科の教員を務めている。「人間」「国際」「グローバル・ラーニング」「グローバル・シティズン」の授業などで、ワークショップや講演会を取り入れた参加体験型学習を行っている。
ぼくは大阪市で生まれました。父の仕事の関係で生後6カ月で呉市に引っ越しました。ぼくが本格的に異文化に出会ったのはブラジルですが、振り返ってみると子どもの時から「異文化体験」をしていたようです。
母は結婚するまで京都で育ちました。父は京都の大学を卒業したので、家の中では京都弁で話していました。ぼくは家の中は京都弁、外は広島弁と、二つの方言を使い分けていました。夏休みは京都の実家で過ごすのが習慣になっていました。広島と京都の二つの文化を生きていたのです。
1歳のときに呉のカトリック教会で洗礼を受け、毎週日曜日は家族と一緒に教会へ通っていました。当時、キリスト教はほとんど知られていませんでした。小学校の先生が宗教について尋ねた時、「キリスト教の人」と言われて、恥恥ずかしくて手を挙げることができなかったのを覚えています。中学生のときに「どうしてぼくに洗礼を受けさせたんだ。ぼくには宗教の自由はないのか」と両親に反発したこともありました。
ぼくにとってキリスト教は異文化でした。そのキリスト教が、ぼくの生き方や考え方に大きな影響を与えました。
ぼくは小さいときから、医者になって病気の人や困っている人を助けたいと思っていました。
ところが、小学校高学年のころから、次第に勉強に集中できなくなり、対人関係でも緊張しやすく、人前で意見を述べるのに苦労するようになりました。高校に入ってからは、少数の同級生との交流はあったのですが、自分を素直に表現できず、悶々とした日々を過ごしていました。大学受験に失敗して、京都で予備校に通ったのですが、勉強に集中できませんでした。浪人生活2年目に突入したころは、将来の展望が開けず、絶望的な心境に陥りました。
そのようなとき、スペイン人司祭と予備校の英語講師との出会いがきっかけとなって、生きる元気を取り戻しました。そして、ある日、カトリック教会の司祭になる決心をしました。「魂の医者」になろうと思ったのです。練馬区にある「東京カトリック神学院」で司祭になるための養成を受けながら、上智大で哲学を学び始めました。その時は長いトンネルを抜け出たように感じたのですが、勉強にやる気が出ない状態は続きました。
ところが大学4年生のとき、週末に中野区にある徳田教会の小中学生の教会学校を手伝うようになって、ぼくの心境に変化が起こりました。中学生は月1回、リヤカーを引いて近くの団地で古新聞や古雑誌を回収し、それを売ったお金で虫下しを買い、ブラジルのパラナ州マリンガ市のスラム街で働く日本人司祭のもとに送っていました。
ぼくはこの活動に参加して、ブラジルの貧しい現実を自分の目で見たいと思うようになりました。フランスやベルギー出身の外国人宣教師に出会い、母国を離れてたくましく生きる姿に感銘を受けたことも、ブラジルに行きたいという思いを強めました。日本を離れて外国で生活したら、人間的にもっと成長できるのではないかと期待したのです。
希望がかなってブラジルに到着したのは、大学を卒業して8カ月後のことでした。25歳のときから12年間、ブラジルとメキシコで生活しました。その間、本当に多くのことを学びました。