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第63回国連総会日本政府代表顧問として、人権などをテーマにした第3委員会に出席した筆者(2007年11月) |
1957年、長崎県生まれ。高校ではハンドボール部、大学では軟式テニス部に所属。長崎大医学部を卒業後、東京女子医大で研修を受けた。研修終了後、長崎大で小児外科を専攻。2001年、「国境なき医師団(MSF)」に参加。以後、スリランカ、インドネシア、リベリア、ナイジェリアなどに外科医として昨年までに9回派遣され、現場で医療援助活動を行った。10年3月、国境なき医師団日本の会長に就任。
幼いころ、知り合いの外科の先生に「将来は医者になりたい」と話したら、「女の子は仕事をするより、お嫁さんになるのが幸せだよ。女が医者なんかならなくていい」と言われました。学校時代は、人並みに勉強さえしていれば、女だからと差別されることもなかったように思います。そして、医学部を卒業して外科医の道を選んだ時も、特に何か言われた記憶はありません。研修をした病院も女性外科医が多いところだったので、あまり苦労しませんでした。
ところが、長崎の大学病院に戻って働き始めると、手術室に連れていく患者さんから、「あんたが、おれの腹の中に手をいれるとかね?」と不満げに聞かれた時は、返事に困りました。
実は、東京で研修を始めたころから、「やっぱり女は…」と言われたくないので、誰よりも早く病棟に行き、できるだけ遅くまで残る生活をしました。患者さんが起きるころにはいて、消灯後に帰るのです。そうすると同僚の看護師さんたちも頼りにしてくれます。
長崎に戻っても、同じようにしました。先輩から言われたことがあります。「黒ちゃんが長崎に戻ってくると聞いたときは、どんなに生意気なやつが来るのかと思っていたけど、よく働くし、勉強して後輩や看護師にもよく教えていたよね」と。
働く女性のグループに誘われ、例会で先輩女性の体験談を聞いたり、女性や子どもに関する問題を解決する方法を考えたりしました。女性医師に差別があると思っていたら、他の職種の女性たちも同じような問題を乗り越えて生きていました。その後、全国組織の役員としても、働く女性の地位向上や環境改善などをめざしました。
1998年、外務省が支援する日本・中東女性交流事業でヨルダン・エジプトを訪問し、2005年には団長として、この2国に加えパレスチナを訪問しました。中東は女性差別が強いというイメージでしたが、国の政策を決める地位に多くの女性がかかわっていました。一般女性たちもとても元気でした。地方ではまだまだ学校に行けない少女や貧しい女性たちがいましたが、さまざまな方法で機会を与え、自立支援をしていました。
生まれた赤ちゃんに奇形があるとして離婚された母親や、手術の障害で子どもがいじめられたり、普通の小学校への入学を拒否されて悩んだりする両親を見てきました。病気と闘う子どもたちが受け入れられる社会に変えなくてはと、医師の仕事以外に、社会活動にも積極的に参加しました。
07年と08年には国連総会日本政府代表顧問に任命され、人権などを議論する会議に出席し、約2カ月をニューヨークで過ごしました。出産で死亡する女性の数を減らそうとか、小学校に行けない女の子をなくそうなど、女性の人権、子どもの人権が世界中のどこでも尊重されるようにと、国際社会が大きく動いていることを知りました。
「男だったらよかったのに…」と思ったこともありましたが、今は違います。マイノリティーや弱い立場の人の気持ちが理解できるという意味では、女性に生まれてよかったと思えるようになりました。たくさんの人に支えられ貴重な体験をすることができたのです。
国境なき医師団の現場でも、現地の人たちにできるだけ近くよりそいながら、私のできる限りの力を発揮し、仲間とともに活動を続けていきたいと思っています。