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高校時代にハンドボール部の仲間たちと(前列左端が筆者) |
1957年、長崎県生まれ。高校ではハンドボール部、大学では軟式テニス部に所属。長崎大医学部を卒業後、東京女子医大で研修を受けた。研修終了後、長崎大で小児外科を専攻。2001年、「国境なき医師団(MSF)」に参加。以後、スリランカ、インドネシア、リベリア、ナイジェリアなどに外科医として昨年までに9回派遣され、現場で医療援助活動を行った。10年3月、国境なき医師団日本の会長に就任。
長崎県北部の小さな町で診療所に雇われて働く医師の長女として生まれました。1歳になる前、父が別の診療所に異動となり、現在地(長崎県西彼杵郡時津町)に引っ越しました。日曜日の午後が外来休みで、月に1回、家族で外食に出かけるのが楽しみでしたが、患者さんが来て、お出かけは取りやめになったことが何度もありました。
私たち家族の食事は、まず入院患者への食事を作って病室に運んでからでした。手術室で麻酔をかけるのをのぞいたり、術後に切除した臓器をこっそり見せてもらったり、忙しい時は、小学生の私もカルテを出したり、薬の分包を手伝いました。辛いとは思いませんでした。忙しくても病気で苦しむ人を助けることに満足している両親や看護師さんたちの姿をみて、尊敬に値する仕事だし、自分も同じような仕事に就きたいと感じていたからでしょう。
家の近くは田んぼや山など自然がいっぱいでした。大きなカエルを捕まえ、弟を助手にしておなかを切開したら、内臓からたくさんの虫が出てきてビックリしたこともありました。父には、面白半分でメスを入れたことをしかられました。
小学校・中学校時代は読書好きで、詩や作文が得意でした。絵を描くのも好きでした。ピアノも習っていて、父の影響でクラシック音楽もよく聞きました。ところが、高校に進学後、ハンドボール部に所属して、体育会系の芽が培われました。運動能力はゼロに近いと思っていたのですが、日々の練習で鍛えられ、学校のマラソン大会では学年で10位以内に入るようになりました。さらに、女だからとさまざまな場面で差別や偏見があるのが許しがたく、生徒会活動をするなど、やりたいことには何でも挑戦しました。
医師になりたいと思っていたものの、テレビやラジオで活躍する同時通訳に興味を持ち、英語で身を立てたいと思うようになりました。有名私立大英文科や国際関係分野への進学を真剣に考えました。しかし、母の一言で医学部に進みました。それは「まだまだ女が一人前と認められるには特別な技術を持たなくてはいけない。英語はどの分野でも学べる」という言葉でした。
長崎大での6年間は勉強の傍ら軟式テニスに夢中になりました。卒業時、外科専攻を決めましたが、当時、長崎大の外科は女性医師を歓迎していませんでした。東京女子医大で研修を受けることにしました。
大学受験で医学部は理系ですが、患者さんたちを治すのに必要なのは、医学の知識だけではありません。文学少女時代に読んだ本や出会ったちょっとネクラな友だちとの関係もいい体験であり、スポーツで鍛えた体力とチームワークも役立ちました。医療は、患者さんや病院の仲間との信頼関係があってこそです。
医師の仕事はやりがいがあります。でも、自分だけではできません。病院をささえてくれるいろんな職種の人々がいてできることです。国境なき医師団の仕事のなかで、私はそれを学びました。何もできなかったイラクミッションでは後方支援といいながらも、医師の仕事は何もないので、私は情報収集のための新聞を買いに行ったり、銀行や郵便局に行ったりしました。どんな仕事も何かの役にたっていて、それに感謝をしなくてはいけないと思います。