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 黒崎 伸子(上)  紛争の現場 救命に全力


内戦に巻き込まれて負傷した少年と、その処置をする筆者(2009年7月、スリランカ北部)

くろさき・のぶこ

1957年、長崎県生まれ。高校ではハンドボール部、大学では軟式テニス部に所属。長崎大医学部を卒業後、東京女子医大で研修を受けた。研修終了後、長崎大で小児外科を専攻。2001年、「国境なき医師団(MSF)」に参加。以後、スリランカ、インドネシア、リベリア、ナイジェリアなどに外科医として昨年までに9回派遣され、現場で医療援助活動を行った。10年3月、国境なき医師団日本の会長に就任。

私は2001年から国境なき医師団の外科医として、紛争地などで医療活動をしてきました。国境なき医師団は、国際的な医療・人道援助を行う非営利団体です。危機にひんした人々への緊急医療援助が主な目的で、医師や看護師をはじめとする4700人以上の海外派遣スタッフが2万400人の現地スタッフとともに世界64カ国で活動しています。

国境なき医師団は1971年にフランスで設立されました。日本事務所の開設は92年です。09年には日本から55人が24カ国に派遣され、計75回の援助活動をしました。

私が初めて派遣されたのは01年、スリランカ東部の公立病院でした。800以上のベッドがある大きな総合病院でしたが、83年以来続いている内戦で外科治療に従事する医師がいないため、国境なき医師団の外科医2人が四つの外科病棟(約160床)と手術室を担当していました。


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1カ月ほど経過したころ、10歳の少女が腹痛で夜中に緊急入院しました。「先天性胆道拡張症」による膵(すい)炎でした。この手術は設備の整った日本でも3時間近くかかります。仲間の医師たちが「せっかく小児外科専門のノブコがいるんだから、ここで手術をしてあげて」と、午後の手術予定を全部キャンセルしてくれました。

手術が終わって外に出ると、少女のお母さんが泣きだしそうな顔で近寄ってきました。そばにいた男性が「彼女は英語が話せなくて、先生に直接お礼が言えないと泣いているんです」。このときほど、サンキューの言葉に感動し、人を救える医師になってよかったと思ったことはありません。

その後も、いろんな地域に出かけています。03年1月、夜遅く「先生にピッタリのミッション(任務)の話があります。2週間以内に出発は可能でしょうか?」と連絡が入りました。数日後にはイラクミッションのメンバーに決まりました。いつ始まるかわからない戦争のために、ベルギーで大量破壊兵器対策の研修などを受けました。戦争開始前には隣国ヨルダンで待機しました。しかし、戦闘開始後まもなく仲間の2人が行方不明となり、先にバグダッド入りしていた仲間も撤退することになりました。私は外科医としての仕事をすることなく、4月初めに帰国しました。


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その後、津波の後のインドネシアに2回、リベリアやナイジェリアなどでも、外傷・戦傷の治療や緊急手術をしました。08年4月に派遣されたソマリアの荒廃はひどく、砂漠の中の病院で3週間活動しました。敷地内も安全とはいえないところでしたが、爆撃・銃撃に巻き込まれた多くの患者が運ばれてくる日が続きました。半分以上は幼い子どもや女性たちです。二十数人が一度に運ばれてきた中に頭に銃弾が当たった少女がいました。病院に着いた時には既に息絶えていました。他の患者の緊急手術がすべて終わっても、その少女はまだ家族の迎えを待って救急室の片隅のベッドで布に包まれていました。

限られた手術器械や薬品で、できるだけ多くの人を救うのが、紛争地での外科治療です。現地の人はその運命を受け入れ、命だけでも助かったことを感謝して、将来にかすかな望みを託すのです。彼らはこれから先もずっと危険と隣り合わせの日々を過ごすのだと思うと、私たちに課せられた任務を果たすしかないのです。

 
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