FIFAの理事たちに原爆の惨状を説明する筆者(左端)=1994年10月、原爆資料館で |
1961年広島市生まれ。市立舟入高を卒業後渡米。カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)経済学部卒業。25歳で留学と異文化交流のサポートを主業務とするアメリカンドリームを設立。ロサンゼルス五輪通訳、原爆ドームの世界遺産登録への協力、2002年W杯日本招致委員会国際部員などを経験した。この2月に広島であった「APECジュニア会議in広島2010」の統括ファシリテーターも務めた。
「ヨーロッパは紳士の国だ。日本と韓国が遺恨を残さないようにという配慮で共催を提案したのに対し、ある国はそれを受け入れ、もうひとつの国はそれをかたくなに拒んだ。8人の紳士がどちらに投票するか明らかなような気がするがね」
「もし日本が日韓共催案を拒否した場合、ヨーロッパの理事8名は韓国に投票するのですか?」という私たちの問いに対するヨーロッパサッカー連盟会長の答えでした。
国際サッカー連盟(FIFA)の理事21名の投票によって開催国が決まる2002年ワールドカップ(W杯)の日本と韓国の招致合戦で、もしこの8票が韓国に入れば日本に勝ち目はありませんでした。
1996年5月30日、スイスのホテルロビーの片隅で急きょ行われた長沼健日本サッカー協会会長(当時)とヨーロッパ連盟のヨハンソン会長の短い会談の数時間後、日本はFIFAの事務局長名で正式に提案された「日本と韓国による02年W杯の共催案」を受け入れました。歴史上初の日韓共催が決まったのです。
私は02年W杯日本招致委員会の国際部員としてW杯招致のため、長沼会長の世界行脚に随行しました。韓国との招致合戦がエスカレートする中、FIFAを構成する世界6大陸を舞台に展開する招致活動の経費は予想外に膨れ上がっていきました。
そんな中、「21人の内の11票を取れば勝ちなんだからもっと直接的な方法があるだろう」という声すら聞こえてきました。それに対し、「アンフェアな方法で持ち帰ったW杯など絶対に子供たちに見せられない」と長沼会長は明言。これは日本の信念としてどんな時も揺るぎませんでした。
84年、カリフォルニア大ロサンゼルス校を卒業したばかりの私が初めてかかわった仕事はロサンゼルス五輪の通訳でした。それ以降、W杯をはじめとしたスポーツイベントや国際会議などさまざまな場面で異文化の人たちとの交渉の場に身を置き、人々の記憶に残るような大きな決断の場を何度か目の当たりにする機会に恵まれました。
そんな経験から、私は次の三つの言葉を大切にしています。「フェアプレー」これは長沼会長から学んだ言葉です。異文化間での交渉ごとは判断に迷うことだらけ。そんな中、「自分が得をするかどうか」で選ぶと判断を間違うかもしれない。しかし、「フェアプレーと信じられる選択肢」で選ぶなら、そこには正解だけが存在するのです。
次に「パートナーシップ」です。仲間とのパートナーシップもさることながら、私は交渉相手とのパートナーシップこそが難関突破の鍵だと思っています。
そして最後に「苦節5秒」。私の人生は失敗だらけです。そんな時に「苦節10年」なんて待っていられません。転んだらすぐに起き上がって、泣きながらでも顔を上げて前に進まなきゃ!
フェアと思える選択肢にベストを尽くし、それに同感する人たちとパートナーシップを構築して進めばその結果に悔いはありません。過去に失敗したことがない、という人より、失敗や挫折を経て復活した人に私は大きな魅力を感じます。