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 水本 敏子(下)  海外活動 出会いが支え


パレスチナでの生活を始めたころ、エルサレムの市場で。中央こちら向きが筆者(1995年3月)

みずもと・としこ

1958年、広島市生まれ。服飾会社に就職して3年後に独立し、ナイトウエアのメーカーを始める。ハンセン病患者施設訪問など多くのボランティアを経験。95年、パレスチナへ。当初はNGOに所属し、イドナ村での「女性収入創出プロジェクト」にたずさわる。2002年からは独立した活動を続けている。広島のNGO「サラーム」が後援組織。東エルサレム在住。

いまの仕事に出会うまでには、長い時間と多くの人との出会いがありました。デザイナーとして広島の服飾会社に3年勤めた後、独立しました。その後の人との出会いが海外で働く私の仕事に結びつきました。


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27歳のときです。カトリック教会の神父にある女性を紹介されました。その人は、信仰のうえで多くのことを教えてくれました。家族のほとんどが海外留学する環境で育った人でした。米国留学中にキング牧師に出会い、イタリア、イスラエル、フランス、ドイツなどで生活し、これらの国の言葉を身につけていました。

「あなたも海外に出て違う文化にふれたほうがいい」。この言葉がどれほど私に影響を与えたことでしょう。当時の私は英語もできませんでした。ところが、1995年に海外生活が実現したのです。東京の非政府組織(NGO)から派遣されてパレスチナに行くことになりました。

91年、湾岸戦争が起きました。所属する教会が難民救済の募金活動を始めました。私も街頭に立ちました。たくさんの募金をいただきました。募金をどう生かすか、検討するための現地調査にかかわりました。これが海外生活のきっかけでした。

当初は、ヨルダンの修道院で生活しながら、パレスチナ難民の女性たちに洋裁を指導するという話でした。修道院で英語を習い洋裁の指導をするのならなんとかなると思いました。しかし実際に私が向かったのはパレスチナのヨルダン川西岸地区でした。

私の仕事を支えるため広島で「サラーム」(アラビア語で平和)という会が結成されました。イドナ村の女性たちの作品を販売してくれています。サラームが発送するニュースレターの読者は200人を超えました。この活動が私のパレスチナでの活動の支えです。


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1、2年で帰国するつもりでした。もう15年が過ぎています。何度も帰国を考えました。所属していたNGOを離れるかどうかを悩んでいたときです。パレスチナ人の友人が「プロジェクトを形にしてからにしろ。それが私たちのキャリアになるから」と言いました。私も女性たちが組合の運営もできないままで帰国することはできませんでした。

時間の長さは感じませんでしたが、緊張と危険で多くのストレスが生まれます。日本語が使えないいら立ちもあります。でも多くの人との出会いが、私にねぎらいと刺激を与えてくれます。

私は人の出入りの多い商売をする家で育ちました。2人きょうだいの長女です。母は仕事に追われていました。遊んでばかりいたけど、家の手伝いもしました。一緒に住んでいた12歳年上の従妹が洋裁学校に通っていました。叔母は洋服を作っていました。この人たちの物づくりに影響を受けたのだと思います。小学生の時に自分の人形の服のデザイン画を描きました。中学・高校時代はカーテンを使ってスカートを作ったりしました。

16歳でキリスト教の洗礼を受けました。叔母の影響です。ハンセン病の施設を年2回訪問したり、週1回、擁護施設に出向いて中学生の家庭教師をしたりしました。

海外での仕事を選んだ時、36歳でした。英語もできず、無謀だったと思います。不安に襲われる私の背中を押してくれた母、母を見守る弟家族、私の家族を見守ってくれている友人や仲間たちの協力なしでは今の私の生活はありえません。

 
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