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 アーサー・ビナード  「根っティブ」になれるか


3、4年前、伊豆の下田でカサゴを釣っていると、船のまわりをトビウオが飛び始めた(岡倉禎志撮影)

アーサー・ビナード(Arthur Binard)

詩人。1967年米国ミシガン州生まれ。コルゲート大学で英米文学を学び、卒業と同時に来日、日本語での詩作を始める。詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞、『日本語ぽこりぽこり』(小学館)で講談社エッセイ賞、『ここが家だ―ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)で日本絵本賞を受賞。翻訳絵本にボブ・ディランの『はじまりの日』(岩崎書店)などがある。

アメリカのミシガン州に生まれ、英語の中で育ったぼくだが、日本にいると「ネイティブ」と呼ばれたりする。母語をしゃべれば、それが「ネイティブの発音」となる。また、和製英語が「ネイティブの耳」にどう聞こえ、「ネイティブの目」にどう映るか、果たして「ネイティブに通じる」言葉かどうかという、そんなリトマス試験紙みたいな役を振り当てられることもある。

来日して足かけ20年、「ネイティブ」と呼ばれることには慣れたが、最初のころ、少々どきりとするものだった。なぜならアメリカにおいて native といえば、ナバホ族の人々、スー族の人々、アパッチ族とオジブワ族とズーニー族のみなさんが当然、先に挙げられるべきだ。ぼくなんか、ヨーロッパから招かれざる客として北米大陸へ移民し、「ネイティブ・アメリカン」の先住民を押しのけて「アメリカ人」になった連中の子孫だ。


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自らの雑種ぶりを披露させてもらえば、まず8分の5がフランス系、8分の2がアイルランド系、残りの8分の1がイギリス系と、大ざっぱにはそんな内訳だ。ぼくの先祖たちの生活と、もともと北米大陸に暮らしていたネイティブ・アメリカンの生活を比較すると、自然界とのかかわり方が根本的に違う。ネイティブは環境問題を引き起こさない、自然のサイクルとかみ合う生活だった。地球の環境破壊がここまで進んでしまった背景には、ネイティブではない連中の暮らしが支配的になった歴史の流れがある。

それにしても、人間は一人ひとり、地球のどこかに生み落とされる。native (ネイティブ)と nature (ネイチャー)の語源はいっしょで、どちらもラテン語の「生まれる」 nasci からきている。生まれる本人は、その場所も状況も親の人種も選べないけれど、生き方ならある程度、自分で決められるはずだ。21世紀に「地球人として生きる」ことは、人種などの枠を超え、自分が住む地域に根ざしたネイティブな暮らし方を、見出そうとするプロセスなんじゃないか思う。

つまり、先住民の知恵を生かし自然とかみ合った生活を探り、どこに住んでいようとそこに根を張る。もしかして、生まれが基準となる「ネイティブ」から、表記をちょっと変えて「根(ね)っティブ」と書いたほうがいいかも…。

思えば、初めて「青人草(あおひとくさ)」という古い日本語に出会ったとき、ぼくは人間の姿にどこか似た植物のことなのかなと想像した。でも逆だった。この世の風に吹かれ、ときには吹き飛ばされそうになりながらも根を張って生活する庶民の姿が、草に似ているからそんな表現ができた。同義語に「民草(たみぐさ)」もあり、どちらかといえば権力者側から、見下ろすような感じではあるけれど、うなずかされる。


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庶民の側に立った「草の根」という言葉も、同じ発想から生まれた。もとは grassroots という英語の訳語だが、「青人草」と張り合って日本語の土壌に根づいている。ただ、日本の社会を見回してみると、「根腐れ」が起きているんじゃないかと心配になってくる。

例えば、東京都板橋区の「草の根」といえば、基本的には区内に住む板橋区民を意味する。練馬区なら練馬区民、豊島区なら豊島区民が、住民運動の中心となり、民主主義が機能するはずだ。ところが今、板橋区に住む人間のかなりの割合が、地元の個人経営の店へはほとんど行かず、本社が遠くにある大手スーパーとコンビニで買い物を済ます。外食のときも近所の定食屋や蕎麦屋を素通りし、ファストフードを頬張る。毎日、数時間はテレビの画面に吸い込まれてすごし、地域を見つめる暇などない。

そんな根を張らない青人草は、吹き飛ばされかねない。

 
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