ガラパゴス島で陸ガメにエサをやっている筆者(2000年2月、ピースボートの世界一周で通訳ボランティアをした時) |
1975年生まれ。学生時代から阪神大震災後の神戸、イラン、コロンビア、旧ユーゴスラビアなどで緊急援助のボランティアをする。ロンドン大経済大学院で発展途上国における社会政策学修士号取得。外務省が若手を国際機関に派遣するための試験に合格し、国連世界食糧計画(WFP)スリランカ事務所に勤務。南スーダンを経て2008年よりWFPソマリア南西地域事務所長。
学生時代は舞台女優になろうと思っていました。小・中学時代の学芸会、高校留学時代にはミュージカル、大学時代にも学内と学外で舞台に熱中しました。体を存分に使う楽しさや皆で一つのものを作る熱気の心地よさ、スポットライトの下で何百という視線の先にいる緊張感、普段と違う自分を演じることで世界が広がる面白さを十分に味わいました。
華やかな芸能界にあこがれるというよりは「さまざまな舞台設定で、別の人物になって、いろいろな物語を生きる」。そんな多様性のある生き方に興味があったのです。その一方で、子どものころから外国への興味は強かったように思います。
小学校のホームルームでは「黒柳徹子みたいに難民キャンプに行って活躍してみたい」と発表しました。中学校時代の卒業文集に書いた将来の夢は「世界中の人と友達になる」でした。私は父の仕事の関係で小学校時代に韓国に2年間住み、高校ではアメリカに1年間交換留学をし、比較的早いうちから外国が身近にありました。
外国に興味を持つ小道具が、日常生活の中にたくさん転がっていました。父がたびたび持ってくる、海外で活躍する日本人や興味深い事件の新聞記事の切り抜きや、知り合いのおじさんから頂いた「世界旅の百科」などです。
自分の進む方向がはっきりしたのは大学2年の時のルワンダへの旅でした。
ツチ人とフツ人の対立による大虐殺が起きた1994年の翌年です。夏休みに訪れた教会には、静寂の中に無数の死体が転がっていました。小さな窓から差し込む光をみて「死」「虐殺」「それでも続いていく社会」―。「(私がのうのうと生きている間にも)世界はこう動いているんだ」というこみ上げるような思いを抱きました。
その一方、近くで小学校建設をしていた非政府組織(NGO)の人たちを通して「未来は変えられる」という実感が体に飛び込んできました。今まで新聞やテレビでしか知らなかった「遠くの悲惨な出来事」が、「私たちの世界で起きている現在進行形の変化」に変わったのです。私の世界の見方を変えた大きなできごとでした。
ルワンダからタンザニアとケニアと回って帰りの飛行機でくしゃくしゃになった日記帳に書いたのは、「人工的な舞台で華やかに生きるより、現実の世界を舞台に大きく生きよう」という選手宣誓でした。
しかし、その時点で自分はどう世界にかかわっていけばいいのか、という具体案があったわけではありません。水泳部や演劇、ミュージカル、バックパッカー…。行動力と体力に関しては、学生時代に徹底的に鍛えましたが、「優等生」ではありませんでした。
高校時代にあった特別授業「世界は今」は、時事問題を発表して議論する場でした。国語の時間のエッセーもすごく楽しかった記憶があります。
中学時代に畑を耕し、高校時代に種まきし、大学時代に芽生えた世界への興味はとどまることを知りませんでした。「広い世界を見たい、知りたい。自分はそこで何ができるのか」と思いながら、アンテナにひっかかったことをすべてやってみた学生時代でした。
バックパックを背負って、中国、インド、アフリカ、中米、ヨーロッパと長期休みのたびにバイトでためたお金で1カ月間ずつ、世界を回りました。そこで受けた刺激や感動が、今も私を世界に向かわせる原動力になっているのです。