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 川崎 哲(中)  「何をしたい」今も自問


アルメニアの首都エレバンでデモをした市民たちの拠点テント。右端が筆者、その左が文中に出てくる「おばさん」

かわさき・あきら

1968年東京生まれ。東京大法学部在学中の91年、湾岸戦争に反対する学生グループを立ち上げる。身体障害者の介助を仕事にしながら、平和活動や外国人労働者、ホームレスの支援活動にかかわる。2000〜02年、NPO法人ピースデポ事務局長。03年、ピースボート共同代表。著書「核拡散」(岩波新書)で日本平和学会・奨励賞を受賞。

幼稚園から小学生にかけては、おとなしい子どもでした。友だちが少なく、いつも一人で絵を描いていました。ジャングルジムの上にいる子どもや、鉄棒が上手な子どもが大将のように見え、怖く感じました。面談のとき先生と母親が「この子はまったく外で遊ばない」と心配そうに話していた記憶があります。

小学3、4年生くらいから変化が訪れました。机に向かうのが好きだったこともあり、学校の勉強はできました。学校は勉強ができると先生にほめられ、地位が上がる仕組みになっています。弱気だった私も、少しずつ自信と発言権をもつようになりました。


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高校では水球部に入りました。毎日夜遅くまできつい練習でしたが、楽しかったし、がんばりました。勉強も一生懸命やりました。文系も理系も面白そうだと思い、文系科目も理系科目もとれるだけとりました。さらに第二外国語として中国語を学びました。とにかく朝から晩まで忙しくしていて、まわりの友達もあきれるほどでした。

高校を卒業すると、大学の入学式は休んで、中国を一カ月旅行しました。初めての海外旅行でした。出会った人にとてもよくしてもらった半面、すりや怖い目にも遭いました。

当時中国は改革開放政策が始まったばかりで、人々の意識は経済や商品にありました。日本人とみると、ウォークマン、自動車、松下幸之助といった話ばかりされました。自分自身とは関係のない「日本」として見られることに、正直うんざりしました。

大学2年の時、イラン・イラク戦争が終わり、戦後のイランをやじ馬的にのぞいてみたいと思いました。イラン、アゼルバイジャン、アルメニア、トルコなどを陸路で旅しました。


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イランでは、行きの飛行機で隣り合った人の家に1週間ほど泊まり、とてもよくしてもらいました。そんなことするもんじゃない、と今では思います。数年前、占領下のイラクをのぞこうとして入国した日本の青年が武装勢力に命を奪われました。結局私自身、その青年と同じような動機で同じようなことをして、たまたまよい境遇だったのだと思います。

当時まだソ連だったアゼルバイジャンとアルメニアを訪ねたのも、領土紛争が報道されていた両国を好奇心でのぞいてみたかったのです。アルメニアでは、同国の主権を叫ぶ市民数千人が、連日連夜集会をくり返していました。すごいことが起きていると思いました。

しかし言葉はロシア語かアルメニア語で、さっぱり分かりません。「誰か英語のできる人はいませんか」と言って、人込みのなかを歩きました。

一人のおばさんが、なまりの強い英語で語りかけてきました。「おまえは何を知りたいんだ」。そのときちょっと、ドキッとしました。果たして自分は、何を知りたいんだろう。そこがはっきりしなかったのですが、それでもおばさんと私は、片言の英語で意気投合しました。私はそのおばさんに数日間お世話になりました。彼女は、あちこちに連れて行ってくれ、アルメニアの歴史や紛争についてほんとうにていねいに教えてくれました。

旅行から帰って、自分のこれからを考えました。「おまえはどうしたいんだ?」。おばさんの問いかけは心にグサリとささっていて、今も抜けきれないでいます。

 
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