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 藤 千慧(中)  国際人になれない自分


東ベルリン(当時)のウンター・デン・リンデン通りに立つ筆者。中2か中3の冬、家族と観光旅行で訪れた

ふじ・ちえ

1969年生まれ。会社員の父と専業主婦の母、姉と弟。大学では化学を専攻。大学時代はアルバイトで自立した。石油ビジネスに関心を持ち金融系企業に就職。その後「難民を助ける会」というNGO(非政府組織)に転職。結婚を機に広島に移り、広島市立大大学院で国際学を学んだ。出産を経てNPO法人ピースビルダーズを設立し、事務局長に。家族は、夫と長男。

私が初めて海外渡航したのは、小学校2年の時です。父の仕事でドイツに渡り、小中学時代のほとんどをそこで過ごしました。当時は「西ドイツ」という国でした。ちょうど「鉄のカーテン」と呼ばれた見えない壁がヨーロッパを東西に分断していた冷戦時代です。ベルリンの壁を越える人のニュースを日常的に聞いていましたし、身近には東側(東欧諸国)からの亡命者がいました。


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陸続きなので、ヨーロッパの国々にはほとんど行きました。週末の買い物も「物価の安いオランダまで」という気楽な感覚で国境を越えました。が、東欧には簡単に行けません。国境線沿いには地雷原が横たわり、あちこちに監視塔が立ち、重々しい雰囲気を醸し出していました。国境越えには厳しい荷物チェックや入国審査が必要です。係員にわいろを渡せばちょっと検査が甘くなったりしました。そんなことも小学生で知っていました。冷戦を体感していたと言えるでしょう。

周囲には、第2次世界大戦中に収容所にいたユダヤ人のサバイバー(生存者)もたくさんいました。子どもながら、自然と話題がユダヤ人問題→イスラエルの建国→パレスチナ問題、と流れることもありました。

1980年代はじめ、エチオピアの飢餓問題が、世界中で大きくとりあげられました。その救済活動のために欧米の著名なミュージシャンが集い、「ライブエイド(「1億人の飢餓を救う」とのスローガンのもとアフリカ難民救済を目的に行われた20世紀最大のチャリティコンサート)」を立ち上げました。U2のボノがアフリカ支援に力を入れ始めたのもこの時代です。音楽好きだった私はそれに熱中しました。

東ドイツの難民、パレスチナ問題、エチオピアの飢餓。今思えば、このころから、「難民」というキーワードに、ひっかかってきたのでしょう。


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こうした状況を並べると、「やっぱり国際人だなあ」と思われるかもしれません。が、こんな環境にありながら、私は当時、国際情勢や政治には全く関心がありませんでした。日本なら「小学生なら当たり前」と思われるかもしれませんが、当時の西ドイツではむしろ珍しいことでした。

漠然と「難民」という言葉が気になりながら、そのために何かをしたこともありませんし、ほとんど意識もしていませんでした。最近、若い方と話していると、「国際平和を目指す!」と胸を張って言う方がいて、本当にしっかりしていてすごいと感心します。私は、そんな崇高な目的をもったこともなければ、そのために努力したこともありませんでした。

帰国してからは、日本の高校になじめず、いじめや不登校もあり、ただ目先の楽しみだけを追って時間を過ごしました。大学に入ってからもはっきりした目的をもてず、退屈しのぎにバックパック旅行ばかりしていました。大学1年の初めての一人旅は中東で、パレスチナの難民キャンプにも行きました。

私の人生で「優等生」だったことは一度もありません。成績が特に優れていたことも、いい子だったこともなく、逆にいつも何かに反発していました。「国際人」だと思ったこともありません。むしろ、いつも国際人になれない自分を自覚していました。

 
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