中国新聞社への出勤途中、平和記念公園の原爆の子の像の前を通ります。そのたびに禎子さんの一生に思いをはせます。この物語はよく知られていますが、一方で公園内にはほかの犠牲者や、愛する人を失った人、犠牲者のために尽くした人たちの碑もあります。
先日、私はこれらの記念碑の基になった話をあまり知らないことに気づきました。そしてもっと彼らの人生とそこに関係した人々の話を学ぶべきだと思いました。
memorial は remember と似ています。平和記念公園の記念碑に込められた物語をより知ることで、もっと碑への思いが強くなるでしょう。
米国イリノイ州出身。ニューヨークの大学と、サンフランシスコの大学院で演劇を勉強。大学院生のときに「ピースコール」というボランティアとして、ヨーロッパのチェコで英語の先生をした。広島市安佐北区在住。
10月、禎子のお母さんは毎晩病院で過ごし始めました。1955年10月25日の朝、お母さんは禎子のお父さんに電話しました。お母さんは彼女が死にそうだと伝えました。家族や友達は彼女をみとるため病院に急ぎました。午前10時ころ、佐々木禎子は12歳で亡くなりました。
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禎子の葬儀の後、クラスメートは集まり、一緒に悲しみました。禎子、そして原爆でなくなったすべての子どもたちのために何かしたいと思いました。彼らは平和記念公園の中に記念碑を作るため募金することを話し合いました。大人の支援で、このアイデアはどんどんふくらんでいきました。その年の終わりには、寄付金が日本全土から来るようになりました。
※締め切りは3月2日(必着)です。
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