お手紙で私の翻訳への関心などについて質問を受けました。
子どものころから書くことは好きでしたが、外国語が得意だったとは言えません。学生時代、フランス語を勉強しましたが、10までの数字くらいしか覚えていませんから。
1992年から94年まで、日本で言うと青年海外協力隊のような米国政府のプログラムで、チェコでボランティアをしました。ここで初めて外国語の勉強がうまくいったと思います。ペラペラとまではいきませんが、チェコ語を話せるようになり、このときから翻訳の仕事をするようになりました。
そして96年、日本に来て一生懸命日本語を勉強しました。少しずつ上手になり、さまざまな翻訳の仕事をするようになりました。広島に住んでいると、ひろしま国のようなウェブサイトや被爆者インタビューなどのやりがいのある翻訳の機会があるんですよ。いい翻訳の秘訣をお教えしましょう。文章を注意深く読み、できるかぎり忠実に表現するのです。
米国イリノイ州出身。ニューヨークの大学と、サンフランシスコの大学院で演劇を勉強。大学院生のときに「ピースコール」というボランティアとして、ヨーロッパのチェコで英語の先生をした。広島市安佐北区在住。
佐々木禎子さんはこの放射線の被害者の一人です。爆発の時、禎子さんは2歳で、爆発によるけがはまったくありませんでした。けれども、彼女は小学6年生のとき、白血病になりました。病院で、日本で千羽折ると願いが叶(かな)うと信じられていた折り鶴をつくりはじめました。彼女は生きたかったのですが、12歳で亡くなりました。平和記念公園にある原爆の子の像は彼女のこの物語から作られたのです。
英語翻訳の応募は、下のフォームから送れます。どしどしチャレンジしてね。
爆弾が落ちた後、その年はヒロシマの人々にとって厳しいものでした。苦痛は肉体にも心理的にもありました。多くの生存者はけがと病気に打ち勝とうと、もがいていました。同時に彼らは愛する人を失った痛みにも直面しなければなりませんでした。そして家や食べ物、衣類など、私たちが今日当然と思う必需品が不足していました。
※締め切りは6月29日(必着)です。
英訳のヒント