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ヒロシマを学ぼう

学徒動員  授業が消え毎日作業


広島陸軍兵器補給廠(しょう)=現広島市南区霞=に動員された学徒(1943年ごろ、広島市文化振興課所蔵)


戦時中、特に末期、10代の子どもたちは毎日、軍需工場に駆り出されたほか、建物を壊したがれきの片付け作業をしました。「学徒動員」です。授業はなくなりました。

学徒動員は、今の中学生以上が対象です。1941年8月、文部省の命令で、集団での勤労作業に動員されることになりました。戦争が激しくなるにつれて勤労期間が長くなり、44年3月には年間を通して勤労することになったのです。

広島でも、上級生から順に軍需工場に行って船や飛行機の部品を造ったり、学校で軍服を縫ったりするようになりました。同年11月以降、空襲で火災が広がるのを防ぐために家を壊して空間をつくる「建物疎開」にも携わりました。

原爆資料館(広島市中区)が2004年に開いた企画展によると、原爆で動員学徒約2万6800人中、約7200人が亡くなりました。うち約5900人は建物疎開の作業中でした。爆心地に近い場所だったのです。



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