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8.6探検隊

(61)被爆直後 列車が走ったって本当?

Q

被爆直後、救援列車が走ったって本当ですか。




A

軍用線使い負傷者運ぶ

「命からがら列車に乗り込み、広島の街から逃れた」「続々と駅に降り立つ被爆者を担架で運び、介護した」。そんな証言がたくさんあるよね。でも、爆心地から東約2キロの広島駅の各施設をはじめ、鉄道の被害は甚大だったはず。直後に列車を動かすことができたのだろうか。

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芸備線の上り列車には被爆者が満載されていた。列車が駅に停車するたび、付近の人たちは青竹に水を入れ窓から差し入れたという(三次高生徒が親から聞いて描いた絵。三次市史Ⅲより)

国鉄労働組合がまとめた〈原爆被災復旧記録〉「この怒りを 第4集」(1978年8月発行)の加藤昇機関士の手記。

「宇品線四〇八列車を運転し広島駅ホームにさしかかる寸前、ピカッと光る閃光に目がくらみブレーキを夢中でかける」「瞬間、爆風で強くたたきつけられる。横にいた機関助士がいない。もうもうとまきあげる土煙。ホームを見れば、屋根が落下し、鉄骨がひん曲がり、負傷した乗客がガレキの上を逃げていく」

直前の8時3分に広島駅を出た貨物列車は近くの鉄橋で被爆し脱線転覆。枕木からの発火や民家からの飛び火で燃えた。

■周辺で折り返し

しかしそんな状況にもめげず、駅構内にあった車両の退避は着実に行われたようだ。しかも単に退避させただけでなく、軍用線路を使い東練兵場(広島駅北)に集まった多数の負傷者を西条(東広島)や海田市(海田町)方面に輸送した。

救援列車の第1号は、負傷者約200人を乗せ正午すぎに広島駅から出て西条駅まで行き、午後3時ごろに広島駅に帰り、再び西条方面に向かっている。

それだけではない。被害が少なかった周辺部の駅では、折り返し運転が行われた。

芸備線の備後十日市機関区(三次市)にいた三宝登さんの手記。

「午前九時ごろ呼び出しがあり、広島への救援列車を運転することになった。午前十時ごろ、備後十日市駅(現三次駅)を出発。広島に近づくにつれ異様な姿で線路を歩く多数の被爆者に出会う。正午前、広島駅一つ手前の矢賀駅到着。折り返し運転することになった。被災者が押しかけ機関車の炭台、前デッキまで人であふれた。『危険です。降りてください』と説得してもどうにもならない。やむなく午後四時すぎ発車。午後九時すぎ、十日市駅に到着した」

■市町村史に記述

芸備線には多くの被爆者が乗り込んだらしい。沿線自治体の各市町村史を見ると、避難してきた人たちの状況が記されている。ただ運転された時間が大きく食い違っているのはどう理解したらいいのだろうか。

「六日午前十時三十分ごろから、芸備線によって続々と避難者が町内の各駅に送られてきた」(白木町史)「正午ごろから、向原駅に下車した被爆者から凄い惨状を聞かされたが、要領を得なかった」(向原町史上巻)「罹災列車の第一陣の備後十日市駅到着は午後三〜四時ごろであった。朝の二番列車が矢賀駅から引き返したものであった」(三次市史Ⅲ)といった具合である。

県立三次高史学部の生徒が77年、地元の人たちに聞いてまとめた「鎮魂 原爆投下直後の三次における救援活動」という冊子がある。その中で、当時の備後十日市駅助役は「被爆者の第一陣が到着したのは午後一時すぎであったと思います」と語っている。

時間をはっきり覚えていないほど混乱していたということなのだろう。しかし、原爆が落とされた日、被爆者を運ぶために国鉄の救援列車が動いたことは間違いない。(難波健治)