そんなことってあるのかなあ。信じられない気持ちで広島市水道局(中区)に足を運んだ。でも水道局の答はやはり、「断水はしてません」だった。
「広島市水道百年史」(1998年発行)を見ると、当時の中本弘市議会議長が巻頭の祝辞で「広島市の水道事業は創設以来の不断水の記録を続けている」と述べ、山岡俊英水道事業管理者・水道局長(当時)も「本市の水道は、市民生活に欠かせない水を1日も絶えることなく送り続けてきた」と書いている。
全壊し鉄骨が曲がった広島市水道部庁舎。ここから2キロ余り北に牛田浄水場がある(1945年10月、林重男氏撮影) |
では、原爆が落ちた日、水道職員たちの動きはどうだったんだろう。
爆心地から東へ約500メートル(現在の中区基町)の水道部庁舎は壊滅、勤務中の職員20人は全員亡くなった。しかし、北へ約2・5キロの牛田浄水場(東区牛田新町1丁目)では、懸命の復旧作業が続いていたのだ。
広島市が68年に編集した「原爆体験記」に、被爆当時、水道部給水課技手(技術職員)だった掘野九郎さんと西本粂吉さん(いずれも51歳)が手記を寄せている。二人は牛田浄水場に勤務していた。
3交代勤務で午前7時に仕事を始めた西本さん。「場内の変電所で、大きな火花と、どすんという腹底にこたえる音響と同時に電動ポンプ室内のモートルから火を吹いた」「ポンプ室は屋根が2平方メートルぐらいの穴があいている」「配水池の水が逆流するおそれがあるのでポンプの揚水弁を三台とも閉鎖した」「配水池に登る。(水は)大きな渦を巻いて流出している。(このままでは水はなくなってしまうと)配水弁を絞った」。被爆による腰の痛みに耐えながらの作業だった。
非番の掘野さんは広島駅近くで被爆し、やけどを負ったまま浄水場に駆け付け復旧作業にあたった。水道局によると、結局、この日は予備のディーゼル系ポンプ3台を動かし、夕方までに1日4万2千立方メートルの送水ができるようになった。当時の1日の給水量の約4割だ。その間も、高台にある配水池の水は自然流下で市内に供給されたため、あの日も広島の水道は断水しなかった。
もちろん広島の街は壊滅状態。水道管はあちこちで破損していた。浄水場から送水しても家庭で蛇口を開けて飲めるような状態ではなかった、と想像できる。水圧を下げないために管の漏水個所に木栓を打ち込むなど、生き残った職員は引き続き総がかりで応急修理にあたった。作業は翌年の4月上旬まで続いた。
ところで広島市の水道は全国で5番目にできたことを知ってるかな。1番は横浜で1887(明治20)年。函館、長崎、大阪と続いて広島市は1898(同31)年8月に完成した。
三角州の上にある広島は、井戸を掘っても塩分があって飲み水に適さない。明治の中ごろまではコレラなどの伝染病もたびたび流行し、公衆衛生のためにも水道の開設が急がれていた。日清戦争(1894〜95年)で広島は軍事上重要な拠点になったことから、まず軍用水道の建設が決まり、これに接続する形で市民用水道の建設にも着手したのだそうだ。
110年を超えて絶えることなく給水を続ける広島市の水道。それはあの日、水を求めながら亡くなった多くの市民の気持ちに応えようとした職員の気持ちが込められているからかもしれないね。(難波健治)