原爆資料館(広島市中区)の展示にはたしかに、地上600メートルで爆発したと書かれているね。
米国側の記録はどうだろう。1945年の7月24日付の米軍攻撃命令書の草案は「爆弾は地上およそ2000フィート(約600メートル)の高度でレーダー近接信管によって爆発させる」となっている。
また、原爆製造の指導者だったロバート・オッペンハイマー博士は同年5月に、原爆製造を指揮したレスリー・グローブス少将に送った書簡で、爆発高度について採用される可能性が高い数字は1910フィート(約580メートル)だろうと指摘している。
数字に多少の違いはあるが、米国が爆発させる高度にこだわっていたことがうかがえる。
原爆資料館にある広島市の1000分の1の模型。上空の赤い玉が爆発後1秒の火球のイメージ |
では、高度にはどんな意味があったのだろう。「原爆はこうして開発された」を執筆した、東京工業大の山崎正勝教授=科学史=に聞いてみた。
山崎教授は原爆の爆発高度について「主に爆風の威力を考えて決めたのではないか」と話す。当時は、爆弾の威力を測る時に衝撃波(爆風)を基準にしていたというのがその理由だ。
長年、原子核物理学を研究している葉佐井博巳広島大名誉教授によると、地上600メートル付近で発生した衝撃波は、地表から跳ね返った衝撃波と重なり、地上の建物などに与える威力が最も大きかったそうだ。
そのせいか、広島に投下された原爆はレーダーを使い、決められた高度で爆発するようにあらかじめ設計されていた。
原爆開発の歴史をまとめた「ロスアラモス技術史」(デビッド・ホーキンス著)によると、原爆は三重の仕組みで点火するようになっていた。まず、投下から15秒間は始動しないようにしておく。さらに気圧を測って7000フィート(約2000メートル)の高さまでは作動しないようにした。最後が地上との距離によって点火させるレーダー装置だ。レーダーは4台搭載し、そのうち2台が動けば爆発するようにした。
ところで、原爆がもたらす威力は爆風と熱線、初期放射線、残留放射線の4つがある。原爆開発中の事前予測で米国は、爆風だけでなく、熱線や放射線による被害が生じることも把握していた。けれど、事前予測では爆風以外の被害を軽く見ていたと思われる記録が残っている。
マンハッタン計画の中心的メンバーだった物理学者、ハンス・ベーテ氏(2005年、98歳で死去)たちの1944年3月の予測では、放射能を帯びた爆弾の破片などの放射性物質は、爆発直後にできる火球に閉じこめられ、成層圏(高度約10キロ―50キロ)まで上昇するとしていた。放射性物質は最低半径100キロに渡って広がるため、影響は低いと考えていた。
ベーテ氏は、原爆の被害について、残留放射線などの影響が予想以上だったことを認め、後に、米国の核開発を批判するようになった。山崎教授は「普段なら最も客観性を重んじるはずの科学者が、事前予測で人体への影響を真剣に考えていなかったのは残念でならない」と話している。(村島健輔)