広島女学院大の宇吹暁教授(62)によると、最も早い報道は当日、1945年8月6日午後6時のラジオ放送だったそうだ。日本放送協会(NHK)が「8月6日午前8時20分、B29数機が広島に来襲、焼夷(しょうい)弾を投下したのち、逃走せり。被害状況は目下調査中」と放送した。翌7日付の新聞も大阪発で焼夷弾などで攻撃されたと小さく伝えている。
当時、報道統制を担当した情報局総裁だった故下村宏さん(著者名は号の下村海南)の「終戦記」(1948年)によると、情報局は7日の会議で「一、對外(たいがい)的には、かゝる非人道的武器の使用に徹底的宣傳(せんでん)を開始し世界の輿論(よろん)に訴へる。二、對内的には、原子爆彈(ばくだん)なることを發表(はっぴょう)して戦争※遂行に關(かん)し國民(こくみん)に新たなる覺悟(かくご)を※要請する(以下略)」の方針を決めた。
松重さんたちが撮影した写真を掲載した1946年7月6日付の「夕刊ひろしま」 |
しかし軍部や内務省が反対し、結局、政府方針は国内向けには原爆の文字を使わず「新型爆弾」という表現になった、と書いている。8日の新聞は、大本営発表として、「敵は右攻撃に新型爆彈を使用せるものの如(ごと)きも詳細目下調査中なり」と報じた。
もちろん中国新聞の記者は焼け野原の中で取材をした。元記者の故大佐古一郎さんの「広島 昭和二十年」によると、この日、中国軍管区司令部参謀長に会い、司令部発表の文章をメモした。しかし、この発表は紙面に載ることはなかった。中国新聞は原爆で社屋が壊滅、輪転(印刷)機や紙は燃えてしまい、自力で新聞を発行できなかったからだ。
一方米国では、トルーマン大統領が原爆投下から16時間後に発表したのを受け、いち早く報じられていたようだ。
では「原子爆弾」の文字はいつから出てきたんだろう。調べてみた。
朝日新聞大阪版は11日付「原子爆彈は毒ガス以上の殘虐」との見出しをつけている。日本政府が米国政府に抗議したことを伝える記事だ。歴史研究家の笹本征男さん(64)=東京都世田谷区=は「新聞で原子爆弾という言葉を使った最初の例だと思う」と話す。
では写真はどうだろう。中国新聞の西本雅実編集委員によると、最も早く写真を掲載したのはやはり11日付の毎日新聞大阪版らしい。9日に撮影した2枚を掲載している。投下当日の写真を初めて掲載したのは、朝日新聞大阪版9月13日付。「原子爆彈廣島市(ひろしまし)に炸裂(さくれつ)直後の状況」というタイトルできのこ雲の写真を載せている。
原爆投下当日の写真が中国新聞に初めて登場するのは、11カ月後の46年7月6日。中国新聞が発行していた「夕刊ひろしま」二面に「世紀の記録寫眞(しゃしん)」との見出しで3枚を掲載している。そのうちの2枚は前回、紹介した元中国新聞カメラマンの故松重美人さんが撮影したものだ。
こんなに時間がたって掲載した背景には、45年9月19日に連合国軍総司令部(GHQ)がプレスコードを発令し、原爆による被害の実態やそれを非難する報道ができなくなったことがある。
この夕刊ひろしまの記事は、米国の雑誌が写真を掲載したという内容になっている。しかしこれまでその事実は確認できていない。西本編集委員は「写真を載せるための苦肉の策だったのではないか」とみる。この記事の冒頭には、「あの日を偲(しの)ぶ貴重な記録寫眞を掲げて、世界平和の人柱となった人々を弔(とむら)ふとともに、新憲法に規定される戦争放棄の念を強くすることに資(し)さう」とある。何としても、原爆の被害の真相を知らせようとした熱意が感じられる。(村島健輔)
(※の「遂」と「要請」は原文では旧字体です。)