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8.6探検隊

(44)原爆投下当日の写真は何枚?

Q

原子爆弾が投下された当日の写真は何枚あるのでしょうか。




A

きのこ雲など35枚確認

原爆資料館の展示や本などで、被爆直後の惨状を撮った写真を見たことはあるよね。大混乱の中、どれぐらいの写真が撮影されたのだろう。

原爆報道に長年携わっている中国新聞の西本雅実編集委員に聞いてみた。原爆資料館の資料調査研究会メンバーだった写真家の故井手三千男さんのメモなどをもとに調べた結果、35枚が確認されたという。原爆資料館の落葉裕信学芸員も「資料館が把握している限りでは、この数字が正しい」と話す。

■ネガ所在不明も

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内訳は、炎上する市街地4枚、被災者を運ぶトラック1枚、きのこ雲25枚。被害に遭った市民5枚だ。このうち29枚はネガやプリントが原爆資料館や新聞社などに残っている。6枚は新聞に掲載されるなどしたが、ネガやプリントの所在は判明していないという。

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御幸橋の東で、罹災証明書を書く宇品署の巡査(松重さん撮影)

市民の写真5枚はいずれも元中国新聞カメラマンで、戦時中は中国軍管区司令部報道班員だった松重美人さん(2005年に92歳で死去)が撮影した。松重さんは6日朝に、広島市南区西翠町の自宅で被爆した。午前11時すぎに御幸橋西詰めで2枚、午後2時ごろに自宅兼理髪店の中と周辺を1枚ずつ撮影した。午後4時すぎには、再び御幸橋近くへ行き、罹災証明書を書く宇品署の巡査を撮っている。

「写そうとしてファインダーをのぞいたら、けがをした人が、みんなこっちを見るでしょ、それで余計に撮りにくかった」。01年8月に掲載された中国新聞のインタビューで、記憶をこう語っている。「ここで写真が撮れるのは、ほかにはおらん」との使命感からシャッターを切ったそうだ。それでも2枚目を撮ろうとするとファインダーが涙で曇ったという。

爆心地から約6キロの金輪島で、きのこ雲を撮影した小平信彦さん(89)=東京都目黒区=は、陸軍技術大尉として、野戦船舶本廠(しょう)修理部に勤めていた。

ピカッという光の後に「ドーン」という音がして、外に出るとピンクのきのこ雲が上がっていた。宿舎へカメラを取りに行き、撮影する時には、きのこ雲は白黒で入道雲のような形に変わっていたという。自宅でネガを保存し、02年に原爆資料館へプリントを提供した。

■すべて個人保存

現存する写真は、すべて個人が保存し続けたものだ。西本編集委員はその理由を「政府もメディアも連合国軍総司令部(GHQ)を恐れるあまり、組織としてネガを守ろうとしなかった」と説明する。中部日本新聞(現中日新聞)カメラマンだった水野十三さん(05年に90歳で死去)は、被爆3日後の8月9日に原爆ドームなど72枚を撮影し14日付の同紙に掲載したが、終戦後、会社の命令でネガ、プリントとも焼却したと話していたそうだ。

もっとも当日の写真は35枚がすべてかどうかは分からない。いまだに「広島の未公開写真」が話題になることもある。

08年には米カリフォルニア大の歴史研究者が発表した写真が実は関東大震災のものと分かったこともあった。このときはフランスを代表するルモンド紙が長文の訂正記事を出した。

正確な撮影場所や被写体の記録があいまいだと、こんな誤報を生むこともあるんだね。(村島健輔)


なるほどキーワード

  • 中国軍管区司令部

    1945年6月、旧日本陸軍が広島城内に設置した。司令官や参謀、通信兵たちが勤務し、中国地方の要所に警戒・空襲警報を発令したり、各地部隊との暗号通信を送受したりしていた。

  • 野戦船舶本廠

    陸軍船舶司令部の一組織で、広島から戦地へ兵士や物資を運ぶ輸送船の修理などを担当した。金輪島には船体や無線機などの機器の修理工場があった。