広島市の中心部などを走る路面電車は、街のシンボルの一つになっている。そして1945年8月6日の朝もたくさんの人を運んでいた。当時の路線は現在とほぼ同じ。原子爆弾が投下された午前8時15分はラッシュ時で、広島電鉄の広島市内線は全123両中、70両が運行中だった。
同社電車輸送企画グループの末松辰義リーダーによると、そのうち2両が現役で動いているそうだ。戦後63年を迎え、部品交換の必要や馬力が弱いなどの問題はあるものの「平和への思いを風化させないためにも走らせ続けたい」と話す。車内には日英両語で被爆したことを紹介する文が展示してある。
次に、電車にはどの程度の被害があったのか調べてみた。
広島電鉄の創立50年史(92年)や「電車内被爆者の証言」(91年)によると、車庫にあった電車を含め22両が全焼・全壊し使用不能となった。大破が23両、63両が中小破の計108両が被害に遭った。全123両のほぼ9割にあたる。
爆心地近くでは、線路から5―10メートル吹き飛ばされた電車もあった。「突然前方から火の玉のように車内が真赤になりました。(中略)超満員の乗客が将棋倒しに後ろに倒れて来て、私はステップにほうり出されてしまいました」との証言も「電車内−」には掲載されている。
当時、広島電鉄の従業員は1241人。労働力不足解消のために同社が設立した、家政女学校の生徒約300人も含まれていた。8月6日に出勤した約950人のうち、211人が死亡。女学校の生徒も30人が亡くなったんだ。
現在も走る被爆電車「651号」内で、当時の記憶を語る笹口さん |
そんな中、電車は被爆3日後の9日には一部が復旧した。
「電車を動かすのが使命。動かない状況には情けない思いがあった」と送電線の整備などを担当していた中川幸春さん(79)=大竹市=は振り返る。物資も人も不足している状況で、何としても電車を走らせる、という意地が原動力だった。
7日朝には千田町の本社に社員約50人が自発的に集まった。送電線は10万2400メートルのうち、9割以上が被害に遭った。高知や愛媛の私鉄、呉の市電などから届いた送電線だけでは足りず、がれきに埋もれた電線をトラックで引っ張り出し、再利用した。
また動けなくなった電車を戦車で移動するなど、軍の協力も大きかった。家政女学校の記録「電車を走らせた女学生たち」で元女学生の証言を集めた元運転士河野弘さん(83)=広島市安佐北区=は、その理由を「本土決戦に備え、復旧を急いだからでは」と説明する。当時、広島市には、陸軍の第二総軍の司令部があった。電車は軍人や軍関係の物資の輸送を担うなど、軍とのかかわりが深かったらしい。
再び動きだした電車は、運賃をとらなかった。車掌を務めた、笹口里子さん(77)=広島市西区=は当時、家政女学校の1年生。乗る前に「お金は受け取らなくてよい」と言われ、釣り銭を入れるかばんなども持たずに乗車した。50代くらいの男性が「ありがとう」と笑顔になったことを鮮明に覚えている。「無料の理由は聞かなかったが、誰もが困った状況で、お互いに助けたいという思いがあったのでは」と振り返る。(村島健輔)
軍隊にとられた男性社員の不足分を補うため1943年4月、現在の広島市南区皆実町に開校した。広島、島根両県の国民学校高等科卒業生を中心に、車掌をする女子生徒を募集。午前、午後の2交代で車掌をしたほか、ミシンなどの授業も受けた。45年8月15日の終戦で、一人の卒業生も出さず廃校した。