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8.6探検隊

(29)中国新聞は原爆でどんな被害?

Q

中国新聞は原子爆弾投下で、どんな被害を受けたのですか?




A

社屋炎上 113人が被爆死

中国新聞(広島市中区土橋町)は当時、上流川町(現在の広島三越、中区胡町)に社屋を構えていた。爆心地から約900メートル東。新聞製作に使っていた鉄筋3階建ての旧館と、テナントなども入る鉄筋7階建ての新館があったんだ。

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焼け野原に残った中国新聞の旧社屋(1945年8月9日、岸田貢宜氏撮影)

部谷修・読者広報センター長(57)によると、1945年8月6日午前8時15分、社内には当直担当など7人がいたとみられる。こんなに少なかったのは、当時夕刊がなかったことや警戒警報解除により帰宅した人がいたことなどが理由だ。出勤途中などに被爆した人もいた。即死以外の人も含めると、少なくとも社員113人が原爆により亡くなった。全社員の3分の1にあたる。

社屋は倒壊はしなかったが炎に包まれ、壊滅に近い状態だった。社内にあった輪転(印刷)機や紙などの資材はすべて燃えてしまったんだ。

3日後から発行

マイクロフィルムに記録されている被爆直後の中国新聞を調べてみた。なんと、原爆投下から3日後の8月9日付があった。印刷する機械や紙がないのに、どうやって発行したんだろう。

部谷センター長は「8月9日から9月2日までは、ほかの新聞社に印刷してもらったんです」と説明する。空襲などで新聞製作できなくなった場合を想定し、周辺の他社に代わりに印刷してもらう契約を結んでいたらしい。中国新聞は大阪や福岡、島根にあった6社に依頼。9日、広島駅に広島市と県内に配るために大阪と福岡から10万部が届いた。山口県や県北部のエリア用に直接販売所に届いたものを合わせると、計26万2000部が「中国新聞」の題字をつけて代行印刷された。

翠町販売所の植田進一・前所長(93)=広島市南区=も9日、広島駅のプラットホームに新聞を取りに行った。被爆前の発行部数は約38万部。それには足りなかったが、広島市内の救護所に張り出されるなど、人々に情報を届けようと販売所の人も含め、残った社員は奔走したんだ。

自社印刷へ奔走

自社印刷を再開するための準備も始まった。空襲に備え、被爆4日前に温品村(現東区温品)の元牧場にあった小屋に移動していた輪転機1台が頼みの綱だった。

社史によると、温品村には被爆直後から、生き残った社員約30人から50人が集まった。ほとんどが被爆しており、けが人も含まれていた。

作業はまずは電線を引くところから始まった。試運転もしていなかった輪転機の調整、ほかの地域に疎開させていたインクや巻き取り紙など資材の収集、防空壕を使った写真の現像…。

伝えたいという新聞作りへの熱い思いが実ったのは約1カ月後のことだ。9月3日付。1台の輪転機を使い、自社印刷が再開された。

当時、中国新聞社で働いていた山田精三さん(79)=広島県府中町=は振り返る。「人手はない。燃料も通信手段もなかった中で、よく新聞を発行できたものだと今でも思う」(馬上稔子)