被爆前の街の高さに残る墓石 |
平和記念公園(広島市中区)には、原爆慰霊碑をはじめ、たくさんの碑や像などがあるけど、もちろん被爆前にはなかったものだよね。被爆した建物などの保存を求める市民団体、原爆遺跡保存運動懇談会の村中好穂世話人(82)=中区吉島東=に聞いてみた。
答えは(1)原爆ドーム(2)ドームのそばにある「旧相生橋碑」(3)市平和記念公園レストハウス(4)原爆供養塔の南にある墓石―だそうだ。
原爆ドームが旧広島県産業奨励館だったことは有名だよね。旧相生橋碑は現在の相生橋の前にあった橋を記念して1940年に建てられた。レストハウスは原爆投下前は「燃料会館」と呼ばれ県燃料配給統制組合の事務所だったんだ。
そして墓石は当時、慈仙寺(現在は中区江波二本松に移転)本堂南西の墓地にあった広島藩浅野家の御年寄、岡本宮内(おかもとくない)のものだ。爆風で倒れた笠部分がそのまま残されている。
慈仙寺の梶山仙順住職(85)によると、墓地には約800基の墓があった。1950年に始まった平和記念公園建設に伴い、慈仙寺を含む一帯の家や寺が立ち退くことになり、一時は墓をすべて移転しようと決めたという。しかしこの墓だけは、原爆の悲惨さを伝える貴重な場所として残してほしいという声が公園建設に携わっていた作業員らから上がった。「長岡省吾初代原爆資料館長から申し出もあり、保存を決めた」と明かす。
でも、これだけしか残っていないのも不思議だよね。なぜかな。墓石が残されている場所を訪れるとヒントがあった―。
墓石は、地面をくりぬいたように約40センチから80センチほど下に立っていたんだ。そばにある案内板には書いていないが、実は公園を管理する市緑化推進部によると、この場所が公園内に残る爆心の街・中島地区の地面だった。つまりここ以外は、公園建設の時、敷地全体を土で覆ったんだ。
2000年、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を建設するための地質調査で被爆瓦などが眠る層が発見された。調査に携わった広島国際大工学部の石丸紀興教授(67)=都市計画学=によると、場所によって違うが公園の敷地内は約15センチから40センチの盛り土があり、その下にはさらに市内のがれきを集めた層が50センチほどあるとみられるそうだ。
それらの理由を「表面のでこぼこを同じ土質で整える必要があった。また以前は洪水が多かったため、高くして浸水を防ぐ目的もあったと思う」とみる。
がれき層のさらに下には、8月6日に燃えた地表面も残っている。村中さんは「今は整備され昔の面影は全くないが、たくさんの人がこの場所に住んでいて一瞬にして亡くなったことを忘れてはいけない」と話す。(馬上稔子)