原子爆弾投下後、逃げまどう被爆者が「水をくれ」と繰り返したという話は、被爆証言や手記などで聞いたり、読んだりすることがあるね。「あげちゃいけん」と言われたということも聞いた気がする。調べてみた。
原爆資料館の「学習ハンドブック」は、大けがをしていた被爆者が「ほっと安心し、緊張が解け、亡くなっていったのではないかと言われています」と説明している。
ふむふむ。
次に、実際に水をあげたことがある人を捜し出した。広島陸軍被服支廠(広島市南区)で被爆し、けが人の救護をした中西巌さん(77)=呉市安浦町=だ。若い女性に水を飲ませたら顔色が青くなって、その場に倒れてしまったという。その後、軍人が「水を飲ませると死ぬぞ」と言い回っていて戸惑った。
62年ぶりに訪れた河原で、生徒に水を求められた当時の様子を振り返る細川さん(広島市中区の京橋川) |
当時看護養成所の2年生で、被爆者を看護した竹島直枝さん(79)=広島市中区=は、被爆以前にけがをした人に水をあげてはいけないと教えられた記憶があるという。
どういうことだろう。
被爆者医療を続けている広島赤十字・原爆病院の土肥博雄院長(62)に聞いてみた。
一般論として、水分をとると血流が良くなるため、けがをしていた場合は再び出血する場合がある。「戦時中は、そういう現場を体験したことがある軍人たちが水を与えないようにと指示していた可能性はある」と教えてもらった。
で、被爆者の場合はというと、ケース・バイ・ケースなんだそうだ。土肥院長は「やけどがどのくらいひどいか、内臓破裂などの出血はないかなど、一人一人の状態によるので一律には言えない。瀕死の人なら、水を飲んでも、飲まなくても亡くなった可能性が高い」という。水を与えてよかったかどうかは、普通の人には分からなかったということだね。
爆心地から北東約1・4キロにある広島逓信局(現在の広島逓信病院の北、広島市中区)で被爆した細川浩史さん(79)=同区=は、避難した京橋川の河原で「水が飲みたい」と、消え入りそうな声で求められたことを今でも忘れられない。瀕死のやけどを負い、倒れ込んだ当時の崇徳中の生徒たちだった。
破裂した水道管から水が出ているのが近くに見えたけれど、自分もけがをしていて与える余裕がなかったという。「同じ年ごろの生徒を見ると今でも思い出す。あのとき河原にいた生徒は全員亡くなったと聞いた。望みをかなえてあげたかった」。今回、記者を案内してくれるまで62年間、この河原に近づくことができなかった。(見田崇志)
軍服や靴などの製造、修理、保管のための施設。住所は現在の広島市南区出汐2丁目。爆心地から約2・7キロ南東で、被爆時は臨時救護所として使われた。