原爆ドーム(広島市中区)は崩れかけたその姿で核兵器の恐ろしさを訴えているよね。ヒロシマの象徴といえる。奥の深い疑問かも―。
広島市は昨年、原爆ドームをどう保存していくかなどをまとめた文書の中でその名について「市民の間から誰いうともなく自然に言い出された」と紹介している。明確ではないということだ。
もともと原爆ドームは1915(大正4)年に広島県物産陳列館として完成。6年後に県立商品陳列所と改称し、33年に県産業奨励館となった。終戦後も当分は、「陳列館」と呼ぶ人が多かったという。
「原爆ドームは昔、何の建物だったのだろう」。説明板を読む観光客 |
ではいつから原爆ドームになったのか。広島市公文書館に、市の記述を探してもらった。最も古いのは54年発行の市勢要覧(昭和28年版)。地図に「原爆ドーム」と書かれている。
昔の中国新聞も調べてみた。最初に出てくるのは被爆から5年近くたった50年6月23日付社説「観光への忠言」だ。「原爆ドーム」を「どこにも劣らない」観光場所と紹介する。市勢要覧より4年前だ。広島市が被爆50年を機にまとめた戦後史の図説編集をした元市職員松林俊一さん(63)も「これより古い記述は見つからなかった」と証言する。
次に、中国新聞の記事データベースで「ドーム」を調べてみた。
すると、復興の様子を伝える原爆投下2年後、47年8月2日の記事に「元産業奨励館」の「やぶれ去つたドーム」という表現があるではないか。しかし、これは建物全体ではなく、あくまで丸い屋根の骨組みだけを表しているのだった。
なるほど。やはり5年後の社説が今のところもっとも古いと言うことか。では、誰が言い出したのだろう。
爆心地近くの天神町(現在の中区中島町)に住んでいた広島市観光ボランティアガイド協会の渡辺雅会長(80)は「ドームと言う英語は当時の日本人になじみが薄く、意味を知らない人が多かったはず」と指摘する。今でこそドーム球場などで日常的に使われているけどね。確かに外国人が言い出した可能性があるかもしれない。今となってはたどるのは難しそうだ。
ちなみに、原爆ドームの世界遺産の登録名は「Hiroshima Peace Memorial(Genbaku Dome)」。つまり「広島平和記念碑」だ。
なんだか違う気もするけど、文化庁記念物課によると、当時、戦争の遺産は登録するのにふさわしくない、との意見があったため、世界中に受け入れてもらいやすい、平和を指す名前にする必要があったのだそうだ。一方で、市民に広く呼ばれてきた名前も尊重し、「Genbaku Dome」を付け加えたのだという。(見田崇志)