旧広島地方気象台の当番日誌。「8時30分頃」と書いた後、線を引いて「15」と訂正している
おっと、学校では常識として、そう習ったよね。ジュニアライターからの素朴な質問だ。投下と爆発した時間の区別が必要かも。真相を探ってみようか。
まず原爆資料館に行ってみた。米軍B29爆撃機エノラ・ゲイ号が広島市上空で原子爆弾を「投下」したのも、原爆が「爆発」したのも、展示パネルの文章では「8時15分」となっている。
展示中の懐中時計が止まっているのは8時15分40秒。爆心地から約1.6キロの場所で男性が持っていたものだ。これまで資料館に寄贈された時計は83個。止まっている時間は3時台や12時台もあり、結構ばらつきがある。
ウーン。でも当時の時計が正確だったかどうかは疑問だし、被爆してすぐに止まったかどうかも分からないしな。もっと「動かぬ」証拠があるはずだ。気象観測の記録はどうだろう。
広島地方気象台(広島市中区)に、爆心地から約3.7キロの旧気象台(現中区江波南)で観測された気圧変化の記録紙が保存されていた。見るとグラフの線が切れており、下から矢印で「爆風8h18m6」と手書きされている。8時18分6秒という意味だろう。
業務の引き継ぎに利用した「当番日誌」も見せてもらった。「8時15分頃(ころ)B29廣島(ひろしま)市ヲ爆撃」と書いてあるが、もとは「30分」と書いていたのを訂正しているではないか。謎(なぞ)は深まる。
次に、被爆直後の日本の文献を確かめてみた。
6日午後6時、大阪中央放送局のラジオは「8時20分」投下と報じたという。7日に書かれた呉工廠(こうしょう)の調査についての文書には「20分ごろ投下の目撃」とある。8日の呉鎮守府(ちんじゅふ)の報告では、「10分ごろ爆発した」とあるが、後から「16」と訂正されていた。
文献 | 投下時間 | 爆発時間 |
---|---|---|
中条一雄著「原爆は本当に8時15分に落ちたのか」(同級生の証言) | ─ | 8時06分 |
呉鎮守府司令部広島空襲被害状況調査報告 | ─ | 8時10分ごろ (16分と訂正) |
陸軍船舶練習部広島爆撃に関する資料 | 8時15分ごろ | 8時15分 |
原爆資料館展示パネル | 8時15分 | 8時15分 |
ゴードン・トマス他著「エノラ・ゲイ―ドキュメント・原爆投下」 | 8時15分17秒 | 8時16分ちょうど |
リチャード・ローズ著「原子爆弾の誕生」 | 爆発前43秒 | 8時16分02秒 |
レスリー・R・グローブス著「原爆はこうしてつくられた」 | 9時15分30秒 (時差1時間) |
投下後50秒 |
旧広島地方気象台(気圧の記録紙への書き込み) | ─ | 8時18分06秒 (爆風) |
旧広島地方気象台(当番日誌) | ─ | 8時30分ごろ (15分と訂正) |
8月6日ラジオ放送(広島県編「原爆30年―広島県の戦後史―」) | 8時20分 | ─ |
呉工廠電気実験部長新爆弾調査につき意見具申書 | 8時20分ごろ | ─ |
米国ではどうか。マンハッタン計画総指揮官レスリー・R・グローブスの著書には「15分30秒」投下、「50秒後」に閃光(せんこう)が起こった。エノラ・ゲイ号乗組員らに取材した米国人ジャーナリストらによる著書では「8時15分17秒」投下、「16分ちょうど」に爆発―とするものがあった。テニアンを飛び立った同機の飛行計画と秒単位の違いしかない。
兵器などを生産する旧海軍最大の工場。1903年に呉海軍造兵廠と造船廠を統一し、開設された。41年には世界最大の戦艦「大和」がつくられた。
旧海軍の地方統括機関で、海軍3大拠点の一つ。明治時代に政府が兵力を強めるために1886年、現在の呉市幸町を中心に設置した。
第二次世界大戦中の米国の原子爆弾をつくる計画。ドイツの原爆開発を恐れ、1942年に開発を始めた。45年7月には世界初の原爆実験に成功した。
サイパン島の南約5キロにある島。1945年8月6日、米軍B29爆撃機エノラ・ゲイ号が、原爆を積んで同島の基地から発進した。