秋山 誠一(50)
広島市大手町9丁目(中区)▼貯金保険課▼8月6日▼遺骨は不明。妹冨貴は「兄は玉突き(ビリヤード)店を営み、43年ごろから勤めました。『積立貯金の勧誘でそこまで来た』と、仕事の途中に舟入町にいた私を訪ねて来たことがあります。小柄な兄の制服、制帽姿に中学生みたいとからかうと、照れていたのが忘れられません」▼妻キクヱ(41)は自宅で爆死。広島市女(現・舟入高)1年の長女嘉子(13)は、材木町(平和記念公園)南側一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。
鮎川 智光(20)
不明▼貯蓄業務課▼8月6日▼兄貢が捜すが、遺骨は不明。
有馬 タケヒノ(33)
広島市楠木町1丁目(西区)▼郵便課▼8月6日▼夫の父正雄が捜すが、遺骨は不明。当時13歳だった長女キク江は「大根めしが毎日のように続いていたことから、あの朝は、母に不満をぶつけ、口げんかになりました。母は出掛けしなにうつむき、『たいぎいけど、行かにゃあね』と言いました。育ち盛りの子どもに米のご飯を食べさせられない情けなさでいっぱいだったと、今にして思います」。
池本 美恵子(16)
広島市八丁堀(中区)に下宿。実家は高田郡川根村(高宮町)▼
郵便課▼8月6日▼父広三郎と兄昇が捜すが、遺骨は不明。勤めで
呉市にいた兄は「広島の街に一人出ていた妹の職場を、6月末に訪ねたのが元気な姿を見た最後でした。何か食べさせてやろうと誘いましたが、『仕事中だから』と、けなげに答えました。気丈な妹でした」。
石井 菊枝(27)
広島市中広町(西区)▼貯蓄業務課▼8月6日▼遺骨は不明。兄の娘初江は「叔母は夫が戦死したため、私の母と中広の家で和裁をしていたところ、隣に住んでいた郵便局の主事さんにソロバンの腕前を買われ、勤めました。外での仕事は楽しかったようでした」。
石川 キヨ子(20)
広島市内に下宿▼貯蓄業務課▼8月6日▼賀茂郡志和堀村(東広島市)に住む兄張三らが捜すが、遺骨は不明。
石橋 和子(31)
不明▼貯蓄業務課▼8月6日▼遺骨は不明。おいの石田耕司は「叔母は一人身だったらしく、和子さんの姉に当たる私の母が80年に死んでからは、九州にある墓は私が守っています」。
石元 カズミ(33)
広島市楠木町(西区)▼郵便課▼8月6日▼母原田チヨノらが高田郡郷野村(吉田町)から捜しに出るが、遺骨は不明。小学4年だった二女文恵は「幼いころ父が家を出たため、姉と私を実家に預けて働いていました。男性職員の入営で人手が足りなくなった郵便の集配業務を受け持ち、市内を歩いて回っていた母の姿が忘れられません」。
井口 他美弥(56)
広島市大須賀町(南区)▼郵便課長▼8月6日▼妻トメらが捜すが、遺骨は不明。長男の妻時江は「普段あまり忘れ物をしたことがないのに、その日に限って途中で引き返してきたそうです。虫が知らせたのだろうと、義母がよく申しておりました」。松原町(南区)にあった広島鉄道郵便局の庶務課長から8月1日付で転任したばかりだった。
今村 四郎(26)
広島市白島方面(中区)▼郵便課▼8月9日▼自宅で被爆後、リヤカーで運ばれた安佐郡祇園町(安佐南区)の実家で9日朝死去。捜しに向かった兄の妻シズコは「義弟夫婦は全身やけどを負い、四郎ちゃんは『こんなことで死ぬのは悔しいい。一緒に行こう』などとうわ言を繰り返し、一緒に運ばれて来た妻も相前後して息を引き取りました」。
岩村 三郎(34)
広島市西観音町1丁目(西区)▼郵便課▼8月6日▼遺骨は不明。81歳になる妻八重子は「長男の出産を控え、捜したくてもできませんでした。夫は『初めは女の子だったので、今度は男の子がほしい』と、いつもよく話していました」▼母シモ(69)は、家の下敷きとなって6日死去。
岩本 松一(33)
安佐郡伴村(安佐南区)▼郵便課▼8月6日▼遺骨は不明。75歳になった妻タマヨは「夫は毎朝6時に自転車で出勤していました。市内が壊滅したと聞いても、私は身重のため61歳の母と帰って来るのを待つしかありませんでした。8月17日に生まれた長女には夫の一字を取り、松子と名付けました」と言う。「広島郵便局原爆殉職者之碑」がある南区比治山町の多聞院で毎年8月6日に営まれる慰霊祭への参列を続ける。
上中 久江(14)
広島市千田町1丁目(中区)▼庶務課▼8月6日▼兄為造が爆心1・8キロの猿猴橋近くで被爆した後に捜すが、遺骨は不明。兄は「妹はその年の春に千田小の高等科を卒業し、勤め始めたばかりでした」。
上野 照子(16)
安佐郡祇園町長束向地(西区大宮2丁目)▼貯蓄業務課▼8月6
日▼父貢が捜すが、遺骨は不明。生後8カ月だった妹洋子は「両親は、局舎跡で見つけた姉の日傘の一部を墓に納めたと言っていましたが、母が13年前に他界した時に墓を開けると何もなく、あのように口にすることで気持ちの整理をしていたのだと気づきました」。
生塩(うしお) 初子(34)
広島市皆実町1丁目(南区)▼貯金保険課▼8月6日▼夫剛らが捜すが、遺骨は不明▼長男恭孝(2つ)は爆心2キロの自宅で死去。
宇張前 文子(18)
広島市天満町(西区)▼貯蓄業務課▼8月6日▼父与一らが捜すが、遺骨は不明。
大内 利見(49)
広島市楠木町1丁目(西区)▼貯蓄業務課▼8月6日▼妻キヨ子が捜すが、遺骨は不明。応召で松江市にいた長男利行は「父は、郷里の安佐郡深川村(安佐北区)の三等郵便局を引き継ぐことになっており、5人家族全員が心待ちにしていました。今でも深川近くを通ると、家族で郵便局を営んでいたのではと、もう一つの人生がよぎります」。
大島 恒吉(42)
広島市西観音町1丁目(西区)▼貯金保険課▼8月6日▼遺骨は不明。足をけがしていた妻の世話をするために山県郡八重町(千代田町)から訪ねていて被爆した、めいスミヱは「叔父は『この年になっても召集があるかもしれない』と言うので、7月に私が切った指のつめを新聞紙にくるんで持ち帰りました。それを形見として8月末に京都から来た叔父の兄に渡しました」。国民兵役の最上限は43年、40歳から45歳に延長されていた▼妻シズマ(41)と、長女でスミヱの妹でもある政代(17)は自宅の下敷きとなり、6日死去。
大野 正人(47)
広島市上天満町(西区)▼貯金保険課▼8月6日▼母セツヨと二女和子が捜すが、遺骨は不明。江波町の三菱重工業広島造船所で被爆した二女は「あの朝、私は寝坊してしまい、『好物の桃があるから、食べていかんか』と声を掛けた父にろくろく返事をせずに工場へ向かいました。あれが最後の朝になったかと思うと切なくなります」。
大村 彰一(24)
不明▼郵便課▼8月6日▼遺骨は不明。
大元 芳藏(60)
広島市河原町(中区)▼貯金保険課▼8月6日▼自宅で下敷きになった妻アサが捜すが、遺骨は不明。広島鉄道局に勤めていた三男央は「父は黒い革製のカバンを斜め掛けして保険の勧誘に回り、帰宅後は配給の酒を晩酌に、『もうぼちぼち辞めようかいの』と話していました」。
岡田 クニ(37)
広島市大手町7丁目(中区)▼貯金保険課▼8月6日▼長女礼子らが捜すが、遺骨は不明。宇品町の広島陸軍運輸部で被爆した当時15歳の長女は「小学2年のころ父が他界し、母が保険の集金をして家族4人の暮らしを支えていました。あの朝、今日は休もうかなぁと言うと、母が『行っておいで』と送り出してくれたので、私だけが助かりました」▼大手町小2年の長男弘(7つ)と、クニの母原トモ(63)も遺骨は不明。
岡田 豊司(17)
広島市段原東浦町(南区)▼郵便課▼8月6日▼母芳子が捜すが、遺骨は不明。16歳違いの弟治雄は「顔を覚える間もないまま亡くなった兄は、母ばかりでなく近所の人からも、頑張り屋だったと言われました。子どものころから私も負けないようにしようと思いました」。
岡本 清市(55)
広島市幟町(中区)▼貯金保険課▼8月6日▼陸軍船舶砲兵として草津町(西区)にいた三男清水が7日、局舎跡を捜すが、遺骨は不明。「広島地方専売局を定年退職した父は、三等郵便局をしていた義弟の紹介で簡易保険の集金をしていました」▼妻スマ(54)は自宅で被爆し、48年6月6日、子宮がんで死去。
沖 朝子(33)
広島市西観音町1丁目(西区)▼貯金保険課▼8月6日▼遺骨は不明。双三郡十日市町(三次市)に学童疎開していた小学4年の長女恭子は「母は、父が原爆の前年にニューギニアで戦死していたことを知らずに子どもたちのため懸命に働いていました。6日朝は弟に『桃を持って帰るからね』と言って出勤したそうです。戦後はたった一人の弟と離ればなれの生活でした」。
二女 和枝(4)
母が伴った局の育児室で被爆し、遺骨は不明。
沖 常三(48)
広島市大芝町(西区)▼貯金保険課▼8月6日▼日本製鋼所(安芸区船越町)に動員され、作業明けの自宅で被爆した広島商業3年の長男博志が捜すが、遺骨は不明。長男の妻恵美子は「一昨年他界した夫は『この目で確かめた訳でないし』と両親の死について多くを語りませんでした。原爆直後の市内の様子を絵にしていましたが、死ぬ前にすべてを焼いていました」▼妻久子(40)は、町内から爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に出て、遺骨は不明。
沖廣 憲造(37)
広島市山手町(西区)▼貯蓄業務課▼8月6日▼遺骨は不明。小学1年だった二男守望は「父は出勤途中に自転車がパンクしたので、己斐駅前の店に預けたそうです。8月末に、店の主人が父の自転車を家に届けに来て知りました。形見の自転車は、私が高校生になるまで家族で使っていました」▼広島市女(現・舟入高)1年の長女怜子(12)は、現在の平和記念公園東側の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。
遠原(おばら) 春美(25)
安佐郡祇園町北下安(安佐南区)▼郵便課▼8月6日▼妻米子らが捜すが、遺骨は不明。生後間もなかった長女喜美江は「ハワイ生まれの父は、広島へ引き揚げていた父母をみるために日米開戦の9カ月前、戻って来たと聞きます。5日に市内の建物疎開作業に動員された疲れからか、『まだ眠いな』と言いながら、6日午前5時半ごろ自転車で出勤したそうです」。
織田 敏子(19)
広島市楠木町1丁目(西区)▼郵便課▼8月6日▼父寛一が勤め先の楠木町の工場で被爆後に捜すが、遺骨は不明。小学6年だった弟和夫は「崩れ落ちた局舎を見て帰って来た父が『間違いない。敏子はあそこで死んだ』と肩をがっくりと落としていたのが忘れられません。姉はあと2日で20歳になるところでした」。
加川 悟(44)
広島市大手町8丁目(中区)▼貯金保険課▼8月6日▼賀茂郡板城村(東広島市)の実家に疎開していた妻ウラ子が入って捜すが、遺骨は不明。爆心2・3キロの広島地方専売局(現・日本たばこ)で被爆した二女フサエは「父は局に勤める前は、家で洋服の仕立てをしており、私たちきょうだい5人の服を作ってくれました」▼6月に結婚した長女ハツエ(19)は、大手町8丁目の新居で被爆し、板城村で20日死去。
|
|
死没者の氏名(年齢) 職業▼遺族がみる、また確認した被爆状況▼1945年8月6日の居住者(応召や疎開は除く)と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)
|
柏信 隆(38)
安佐郡山本村(安佐南区)▼貯蓄業務課▼8月6日▼妻好が7日から捜すが、遺骨は不明。88歳になる妻は「爆心地に入ることができたのは8日でした。局舎跡のがれきの真ん中が沈んでおり、爆風で地下室部分まで押しつぶされていました。これでは、人間はひとたまりもないと思いました」。
加土 千代子(18)
広島市己斐町(西区)▼貯蓄業務課▼8月6日▼父友一と母ヨ子が、爆心2・5キロの自宅で被爆した後に捜すが、遺骨は不明。小学5年だった妹悦子は「長女だった姉は勤務から戻ると、病弱の母に代わって家族6人の夕食を支度し、灯火管制の薄明かりの下、夜遅くまで繕い物をしていました」▼広陵中1年の弟一則(13)は通院途中、爆心 700メートルの土橋電停近くで被爆し、たどり着いた自宅で19日死去。
加藤 靜枝(26)(左)
広島市楠木町1丁目(西区)▼郵便課▼8月6日▼父順作が捜すが、遺骨は不明。妹チスエは「姉は6日朝も、戦地の夫から届いた手紙を供えた神棚に手を合わせ、『行ってくるよ』と長女を背負って出ました」。48年5月届いた戦死公報で、夫の末登は45年4月14日夜、フィリピンに上陸した米軍部隊への切り込み突入で亡くなっていたのが分かった。
長女 八重子 (1)(右)
母に連れられ、局の育児室で爆死し、遺骨は不明。
加藤 スマ子(20)
広島市中広町(西区)▼貯蓄業務課▼8月6日▼父作市らが捜すが、遺骨は不明。爆心1・3キロの自宅で被爆した姉ヤイは「母は、原爆で死んだ娘3人のことには触れようとしませんでした。71年に死去した際、母のひつぎに3人の遺影を納めて送りました」▼革屋町(中区紙屋町)にあった製パン組合勤務の姉トシエ(33)と、陸軍被服支廠(南区)勤務のサエ(26)は自宅を出た近くの路上で爆死。
兼國 武市(53)
安芸郡矢野町(安芸区)▼郵便課▼8月6日▼母ユキと長女照子が11日、局舎跡を捜すが、遺骨は不明。長女は「父は、男性職員が兵隊にとられた後に入ってきた女性たちの集配業務を指導し、いつも始業開始の朝8時前には出勤していました。敷地内の育児室があった辺りには、焼けただれ、うじがわいた10数体の幼子の遺体があり、目をそむけるような光景でした」。
金原 昭(18)
賀茂郡郷田村(東広島市西条町)▼郵便課▼8月6日▼父文三が7日未明、自宅から自転車で捜しに出掛けるが、遺骨は不明。弟伍は「郵便物の仕分け競争で県代表に選ばれ、昇格したと喜んでいたのを覚えています」。宇品町にあった広島逓信講習所を卒業した42年7月、広島郵便局に配属された▼西部第二部隊に応召中の兄定(19)は西練兵場(中区基町)で被爆し、遺骨は不明。
元郵便課員の大門満人さんが保存する寄せ書きには、爆死した上司や同僚の直筆が残る。「海軍に志願すると、同期の金原昭君は『職場にいてもお国の役に立つはず』と引き留めました」
嘉野 シゲ子(33)
広島市鷹匠町(中区本川町3丁目)▼貯蓄業務課▼8月6日▼祖母トヨが疎開先の安佐郡安村から向かうが、遺骨は不明。安村にいた小学5年の長女久子は「原爆の1週間前、母と一緒に映画を見ました。劇中で軍歌の『戦友』が流れると、穏やかな母が涙を流しました。家族の生活を支えるため一人市内に残っていた苦労が、涙になったのではと思い出します」。家族でいた清津(朝鮮民主主義人民共和国)で44年、夫が現地召集となり、一人娘とともに戻り、局に勤めていた。
上手 フイノ(31)
広島市己斐町(西区)▼郵便課▼8月6日▼遺骨は不明。佐伯郡上水内村(湯来町)に疎開していた小学3年だった長女は「父は44年に南方ラバウルで戦病死し、母と弟は原爆で死んだため、私は伯父に引き取られました。何年たとうと、幼いころに家族がいなくなった経験は知られたくありません」。
長男 孝之(6)
局の育児室で爆死したとみられる。遺骨は不明。
蒲生 喜美子(28)
広島市堺町2丁目(中区)▼郵便課▼8月6日▼遺骨は不明。双三郡君田村に学童疎開していた小学3年のめい恭子は「叔母は、夫が戦死したため堺町の実家に戻り、勤めていました。今も残る疎開先の私への手紙には『先生方のおつしやることをよくきいて一生けんめい勉強しなさいね』とあります」▼畳表・荒物店経営の父清左衛門(62)、母カツ(58)、祖母リウ(78)、長兄の妻美子(32)、その長男浩信(4つ)、次兄の妻タカヨ(24)は9月27日死去。
河神 周一(45)
広島市段原中町(南区)▼貯金保険課▼8月6日▼遺骨は不明。段原中町の義勇隊として爆心1・6キロの鶴見橋周辺の建物疎開作業に出て被爆した長女マキ子は「父は日ごろから『空襲があっても必ず帰ってみせるので、心配せずに待っていなさい』と話していました」。
川口 一三(56)
安佐郡祇園町長束(安佐南区)▼庶務課▼8月6日▼妻ミツが捜すが、遺骨は不明。中区の広島中央郵便局に勤める孫文則は「祖父、父と三代続いて郵便局で働いています。昨年、祖父が死んだ年齢を超え、感慨深いものがあります。あの日は『早出だから』と午前6時ごろに家を出た、と祖母から聞いています」。
川田 恒子(18)
安佐郡祇園町長束(安佐南区)▼貯蓄業務課▼8月6日▼爆心1・4キロの中広町に住んでいた姉惠美子が被爆後に捜すが、遺骨は不明。姉は「男4人と女5人のきょうだいのうち、二女の恒子と、すぐ下の妹満枝も学徒動員先が局となり、連れ立って出勤していたそうです」▼母シノフ(46)は、夫と手こぎ舟で市内へ向かう途中の三篠橋近くで被爆し、25日死去。祇園高女4年の妹満枝(16)の遺骨は不明。
川本 得馬(33)
安佐郡伴村(安佐南区)▼郵便課▼8月6日▼妻ユリノが8日、生後間もない長女を背負って入るが、遺骨は不明。85歳になる妻は「地下室に大量の、ひと塊になった骨があったそうです。どれがだれの骨か分からず、男性職員から『これでこらえてつかあさい』と渡された封筒には、3センチくらいの骨が3つ入っていました。開けると気が狂いそうになりました」。
岸岡 作市(48)
広島市楠木町2丁目(西区)▼貯金保険課▼8月6日▼妻アキヱが捜すが、遺骨は不明。崇徳中3年から陸軍に志願し、現在の静岡県浜松市の陸軍航空部隊にいた二男祐二は「10日ごろ、私あてに電報が届きましたが、上官ににぎりつぶされました。広島がやられたと聞いていたので、父か母が死んだのだと直感しました」。(注・肖像画)
木谷 政(まさお)(25)
安佐郡祇園町長束(安佐南区)▼郵便課▼8月6日▼妻静枝らが捜すが、遺骨は不明。
木村 タカコ(27)
広島市大手町6丁目(中区)▼貯金保険課▼8月6日▼遺骨は不明。爆心2・8キロの陸軍兵器補給廠(南区霞1丁目)で被爆した妹信子は「姉は、夫が召集されたため一人娘を連れて実家に戻り、勤めるようになりました」▼長女美津惠(5つ)は自宅で爆死。母サツ(52)は運ばれた似島で7日死去。
國友 光子(26)
広島市牛田町(東区)▼貯蓄業務課▼8月6日▼遺骨は不明。小学1年だった長男祐一朗は「父が病を患ったため親子3人で満州(中国東北部)から戻り、母が働いていました。その父が原爆の半月前に結核で逝き、母は『息子を立派に育てねば』と気丈に話していたそうです。私は、母方の祖父母に育てられ、夜間大学を卒業して郵便局員となり、昨年に定年を迎えました。母が就職のきっかけをつくってくれたと感謝しています」。
黒田 貞夫(34)
高田郡三田村(安佐北区)▼検閲課▼8月6日▼高野源進県知事と福山に出張していて助かった秘書の兄増夫らが8日、局舎跡で本人の机があったとみられる辺りを掘り返し、ベルトのバックルで遺骨を確認。おいの雅彦は「叔父は3日、4日と休暇をとり、5日の宿直から勤務に就いていたと聞いています」。
桑原 郁恵(21)
広島市吉島本町2丁目(中区)▼検閲課▼8月6日▼爆心1・6キロの広島貯金支局で被爆した妹信子らが捜すが、遺骨は不明。妹は「姉は、目についた出来事などを四コマ漫画にしてトイレに張っていましたが、憲兵がいた職場の話は家でも全くしませんでした」。
郷田 ナツコ(31)
安佐郡伴村(安佐南区)▼貯金保険課▼8月6日▼遺骨は不明。
畑 (こうはた) 俊行(39)
広島市吉島本町(中区)▼貯金保険課▼8月6日▼妻カズノらが捜すが、遺骨は不明。安芸郡上蒲刈島村(蒲刈町)に縁故疎開していた当時小学4年の二男弘は「その年の春に保険の外回りから内勤事務に昇格し、同僚を家に招いたそうです。配給も乏しく、自家製のドブロクと近所で釣った魚でもてなしたと母から聞きました」▼第二国民学校(現・観音中)1年の長男利勝(12)は、爆心600メートルの木挽町(中区中島町)一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。
甲元 菊枝(29)
広島市舟入町(中区)▼貯金保険課▼9月3日▼爆心1キロの自宅で被爆し、2歳の二男を連れて応召中の夫の実家がある安佐郡伴村(安佐南区)へ。伴村に疎開していた小学1年の長男良典は「夜になり雨戸を閉めようとしたら、髪を振り乱した母が弟を布にくるんで現れました。母の郷里である今の庄原市に私を連れて行くなど、大丈夫に見えました。死ぬとは思いもしませんでした」▼母キヨ(56)は大手町4丁目の県酒類販売株式会社に出勤し、遺骨は不明。
高路(こうろ) ミユキ (18)
安佐郡日浦村(安佐北区)▼貯蓄業務課▼8月6日▼兄の妻澄子が捜すが、遺骨は不明。義姉は「両親は、一人娘が女学校を卒業して広島郵便局に就職できたのを喜び、食糧の乏しい中でもちをついて祝いました。義母は見るからに気落ちして翌年、58歳で亡くなりました」。
兒玉 基二 (29)
安佐郡祇園町東山本(安佐南区)▼郵便課▼8月6日▼妻友江らが捜すが、遺骨は不明。81歳になる妻は「夫はマラリアにかかって除隊となり、日米開戦の前年に結婚した私との間に二児をもうけました。職場では、郵便物の仕分け業務をしていたそうです。同僚に赤紙が届くたび、再度の召集がいつ来るかと気をもんでおりました」。(注・肖像画)
後藤 壽三郎(63)
広島市水主町(中区加古町)▼郵便課▼8月6日▼妻ウメノが倒壊した自宅からはい出して捜すが、遺骨は不明。壽三郎が郷里の山県郡八重町(千代田町)に生前作った墓をみるおいの吉岡要は「30年前に叔母ウメノが死んだ時、墓を一度開けると、叔父を伝えるものは何もありませんでした」。
|
|