99.11.22
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亡き父母への思い込め 継承の形見
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弟昆野直文さんが被爆した動員現場跡で見つけたカバンと
弁当箱を手に話す姉勝美さん。「両親が生きとる間は、この品は見んようにしていいました」(広島県倉橋町の自宅) |
「自分らがもてん(耐えられない)ようになるでしょ。『あーじ
ゃった、こうじゃった』と言わんでした」。広島県安芸郡倉橋町に
住む昆野(ひの)勝美さん(77)は、仏壇から取り出した木綿のカバ
ンとアルミの弁当箱を前に、原爆のことは両親と口にするのは避け
たという。表に広島二中の校章をあしらったカバンを広げると、
「昆野直文 一年」。当時十三歳だった持ち主の名前が、墨ではっ
きりと書かれていた。
カバンは母の手縫い
一人息子の入学を祝い、母マスコさんが着物の帯をほどき、手ぬ
ぐいと縫い合わせて作った肩掛けカバン。直文さんは、それに家族
の期待も詰め、瀬戸内に浮かぶ当時の倉橋島村から広島市西観音町
二丁目の二中寮に入った。
それから四カ月後。カバンと弁当箱が形見になった。倉橋小(当
時は国民学校)で教えていた姉勝美さんが、現在は平和記念公園と
なっている本川左岸の土手で見つけた。一年生たちが動員されてい
た建物疎開作業の現場跡。原爆が投下された一九四五(昭和二十)
年八月六日の翌朝、父直人さんに続き、漁船で宇品から捜しに上が
った。
「途中で出会った同じ倉橋島の奥窪君のお母さんから、直文の防
空ずきんが本川にあると言われ、捜す場所が分かったんです」。土
手は、川沿いの道よりわずかに高く、生徒たちが学級ごとにまとめ
て置いたとみられる弁当箱などが燃えずに残っていた。そばで兵隊
がおびただしい数の遺体を集めては、焼いていた。
平和式典見ずに畑へ
四学級にいた直文さんの姿はなく、現場跡にあったカバンと中身
が真っ黒に焦げていた弁当箱を納めた。二学級の奥窪耕さん=当時
(13)=も遺骨は見つからなかった。
家を継いだ勝美さんは、両親の前では、仏壇奥に仕舞い込まれた
直文さんの遺品を取り出さないようにした。七四年に亡くなった母
は、八月六日は広島市の平和記念式典がテレビに映る時刻になる
と、きまって畑仕事へ出たという。
「ありゃあ、こんなものがあったと言えるように、捨てられるよ
うになりたいです」。一緒に住む娘の前で、そう言って木綿のカバ
ンを畳んだ。
今回、詳しい被爆死状況が分かった一年生の死没者二百七十一人
のうち、四二%に当たる百十三人が遺骨不明のままだ。少年たちが
携え、また戻るはずだった部屋の品を、きょうだいたちが、亡き父
母への思いも込めて大切に持ち続けているのは少なくない。
「洋行」への願い託す
「FK」。一学級にいた加納文治さん=当時(12)=のイニシャル
を入れた旅行カバンが、東広島市の生家を守る姉加納昭代さん(72)
宅に残る。父福治さんと母コメノさんが、娘四人の後の長男誕生を
喜び、買い求めたものだという。縦四十センチ、横七十センチの馬革製カバ
ンは、一度も使われなかったため新品同然にある。
昭代さんは「私が幼いころ病死した父は、カバンに『洋行するよ
うな人物になってほしい』と託していたそうです」と言う。同じ東
広島市に住む文治さんの姉奥田豊栄さん(69)は「七年前に亡くなっ
た母は『あの子はきっと生きている』と毎日、広島市内に出ては捜
していました」と話す。
二人の姉は、今年も連れ立って本川左岸に建つ二中慰霊碑に参っ
た。見覚えのある姿が少なくなっているのに、遠ざかる「昭和」を
あらためて感じた。
(西本雅実・野島正徳・藤村潤平)=おわり=
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