高松 キツ (41)
浄土真宗西向寺▼細工町1番地から、光道小4年の三男悟慚(ござん)が学童疎開していた山県郡津谷村(豊平町)を保護者らで訪ねるため外出していた。遺骨は不明▼子どもと亡夫の妹の4人。寮から通っていた爆心2・1キロの広島工専(現・広島大)で被爆した長男秀洸は「母は横川駅で集合した際に『財布を忘れた』と一人引き返したそうです。登校前に立ち寄ると、寺にはだれもおらず、全員が出掛けた先で被災したと思います」。門徒の多くが市中心部に住んでおり、900あった墓のうち3分の2が無縁仏に。
長女 末利子(まりこ) (14)
安芸高女(廃校)2年▼爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に動員されていた。遺骨は不明。作業現場に出た1・2年生は230余人が死去し、学校は52年に廃校。
二男 泰 (12)
市立中(現・基町高)1年▼小網町の建物疎開作業に出ていた。運ばれた佐伯郡五日市町(佐伯区)の救護所で7日死去。(注・遺影なし)
高松 公子 (29)
西高女(廃校)教員▼動員学徒に付き添っていたらしく、遺骨は不明。同校は生徒・教職員約220人が犠牲となり、校舎も焼失して廃校になった。原民喜の三部作『夏の花』の一つ『廃墟から』(47年発表)に現れるT先生のモデル。「家は細工町のお寺で」「身嗜(みだしなみ)のいい、小柄な姿は凛(りん)としたものがあった」
香月 ヒサコ (43)
浄土宗西蓮寺▼動員作業に向かう広島二中(現・観音高)4年の長男念海を見送り、細工町2番地の庫裏にいた▼長男と妹の3人。爆心3・7キロの三菱重工業広島機械製作所で被爆し、8日に遺骨を確認した長男は「母は暑さから庫裏の台所で休んでいました。私が出掛けた時と同じ位置に、一つだけ遺体があり、母だと分かりました。爆風で墓石は割れ、倒れていたのもありました」。被爆前は「お不動さん」の愛称と夏祭りで知られた。住職の夫崇海は45年末に復員し、再建された寺に50年、市仏教連合会により、原爆犠牲者の守り本尊として重量1トンの「広島大仏」が置かれた。
西広 弘一 (58)
印判「一心堂」▼細工町2番地の自宅から、爆心1キロの市役所東隣の雑魚場町(中区国泰寺町)の建物疎開作業に出ていた。四男の妻となる宇品町の知人の医師宅まで自力で逃げ、手当てを受けるが、7日夜に死去▼妻子との6人のほか、長男と孫が泊まっていた。家族5人が爆死。四男三郎の妻正子は「義父は声を聞かないと分からないほど焼けただれていました。召集で福岡にいた夫はすぐ広島に戻ったものの、被爆者健康手張は取得せずに亡くなりました」。
妻 房代 (55)
自宅の鏡台前にいたらしい。遺骨を確認。前夜は安芸郡船越町(安芸区)にいた長女の婚家先に泊まり、6日早朝に帰宅した。
長男 喜一 (35)
爆死。現在の安佐北区白木町の妻の実家から店に通っていたが、5日は長女千恵子を連れて宿泊。船越町の姉宅にいた四女秋子は「7日に入るとまだ熱く、通りには黒焦げになった中学生や馬の死体がありました。実家跡にあった骨を拾い、陶器のかめに納めました」。
孫 千恵子 (5)
父と一緒に爆死。
五女 静枝 (22)
三和銀行広島支店勤務▼遺骨は不明。爆心140メートルの大手町2丁目(中区紙屋町2丁目)の支店に出勤していた。
坂本 サダノ (36)
細工町4番地の2の自宅にいた。遺骨を確認▼義父と子どもの4人。新興ゴム工場(中区舟入川口町)に動員されていた実践高女(現・鈴峯女子高)3年の長女弓月は「母の遺骨は鏡台の前にあったそうです。私は体調が悪く休もうと思っていたところ、隣の猿楽町に住む同級生が誘いに来て、原爆には工場での朝礼中に遭いました」。
義父 好太郎 (69)
細工町の国民義勇隊として雑魚場町で建物疎開作業に就いてい
た。運ばれた己斐小で7日死去。遺骨は不明。
岸本 純太郎 (40)
読売新聞販売所▼細工町17番地の自宅から雑魚場町の建物疎開作業に出ていた。遺骨は不明▼4人家族のうち3人が爆死。県立第一高女(現・皆実高)4年の長女美智子は学徒動員先の安芸郡府中町の東洋工業(現・マツダ)から御幸橋を抜け、6日午後4時すぎ、北側の西練兵場にたどり着く。「爆心地に近づくにつれ、男とも女とも見分けがつかない丸焦げの遺体が転がり、怖いという感覚しかありませんでした」
妻 君子 (36)(右)
自宅跡で遺骨を確認。「骨がかさかさに焼けていました」と長女
美智子。
長男 純一 (13)(左)
市立中2年▼遺骨は不明。爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に動員されていた。現場跡の天満川左岸に建つ慰霊塔の碑文には、370余人が犠牲とある。
清 茂基 (63)(左)
医師(皮膚・泌尿器科)▼細工町19番地の病院で診察に当たっていた。妻ハナが診察室跡で、夫がかけていたドイツ製の眼鏡レンズ片から遺骨を確認▼妻子との3人でいた草津町(西区)の別宅から、通っていた。大阪にいた孫道子は「原爆の翌年に訪ねると、崩れた白い塀と庭の灯ろうが残っておりました。診察室には、婦長と患者さんの遺体もあったそうです」。
三男 九二三(くにぞう) (18)(右)
県立医学専門学校(現・広島大医学部)1年▼病院裏側の自宅2階にいたとみられる。そこから吹き飛ばされ、隣の西向寺墓地で倒れた墓石の下敷きとなっていた遺体が見つかる。
親族 柳沢 浩壮 (54)
県内政課職員▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
妻 富美子 (43)
遺骨は不明。清病院に寄留していたらしい。(注・遺影なし)
坂口 嘉六 (56)
常友寝具店勤務▼遺骨は不明▼小網町88番地の3の自宅が建物疎開となったため4月初め、細工町45番地にあった常友寝具店作業場に家族7人で移る。そこから山県郡本地村(千代田町)に学童疎開した六男博美は「呉から叔父が9月に迎えに来て、家族6人の爆死を知りました。半世紀余り、両親やきょうだいの最期を自分なりに尋ね調べてきましたが、今もはっきりしません。こつ然と消えたのですから」。
妻 ウメ (46)(右)
遺骨は不明。市役所南側の鷹の橋付近で姿を見たという人がおり、雑魚場町の建物疎開作業に出ていたらしい。
長女 幸子 (18)(左)
広島中央電話局勤務▼遺骨は不明。爆心540メートルの電話局に勤め、6日朝は夜勤明けだったという。
五男 福司 (16)
県工業学校(現・県工業高)4年▼住まい跡の防火水槽で本人らしい遺体が見つかるが、遺骨は不明。
二女 和子 (14)(中)
第二国民学校(現・観音中)2年▼遺骨は不明。2年生は南観音町にあった広島印刷に動員中だった。
三女 富子 (4)
遺骨は不明。
田中 俊夫 (53)
田中食料品店▼細工町49番地の自宅から、爆心約1キロの十日市町にあった市場へ配給品を取りに行っていた。陸軍病院江波分院で9日死去。遺骨は不明▼妻と応召中の一人息子の妻子との4人が全滅。食糧統制と物資不足のため、6番地の三崎商店などと細工町と猿楽町の通り角に、鳥屋町、横町(いずれも現在は中区大手町1丁目)、大手町1丁目を区域とする合同食料配給所を設けていた。
妻 たみゑ (48)(左)
近所の主婦2人と豆腐を取りに行く途中、爆心410メートルの本川橋で被爆。己斐に逃げたところを長男俊明が見つけ、運んだ賀茂郡西条町(東広島市)で、最期に「ブドウを食べたい」と言い、14日死去。
長男の妻 節子 (23)
自宅にいた。宇品町の陸軍船舶司令部にいた夫俊明は「6日は重傷者を似島へ運び、7日朝に入ると、妻は娘を背負ったままの格好で頭を道路側に向けて、きれいに白骨になっていました」。
孫 トシコ (1)
母と一緒に爆死。(注・遺影なし)
木村 憲一 (60)
時計販売「近江屋」▼爆心1・5キロの平野町の借家で下敷きとなる。9月3日、古田町(西区)の病院で死去。細工町39番地の自宅を含む元安橋東側の区画一帯は5月に建物疎開となり、転居していた▼2人。父と一緒に下敷きになった二女喜美子は「金輪島で2晩過ごし、そこから負傷者は工兵隊の舟で大竹に向かいました。板を敷いて、横たえた体に毛布を掛けて隠れました。途中、艦載機の機銃掃射に狙われ…。よく当たらなかったものだと思います」。(注・遺影なし)
三女 喜代子 (13)
山中高女(現・広島大付属福山高)2年▼平野町の叔父宅に住み、雑魚場町の建物疎開作業に動員されていた。遺骨は不明。(注・遺影なし)
高坂 秀夫 (24)
広島鉄道局勤務▼召集された基町(中区)の通信補充隊で食事をとっていた。倒壊を免れた福屋百貨店に収容された後、運ばれた佐伯郡大竹町(大竹市)の親族宅で17日死去▼細工町40番地に母と祖母の3人で住んでいたが、自宅は建物疎開になっていた。母文枝らは広島駅近くで被爆。山口県にいた姉君子は「弟は血液がだんだんと濁り、粘るようになって息を引き取りました」。
金子 勝 (37)
時計卸・販売「金子晄生堂」▼当日に再開した播磨屋町(中区本通)の店にいた。長女が祖母と10日、店跡で遺骨を確認▼元安橋東詰めの自宅兼店舗は同じ本通り筋東の播磨屋町へ移っていたが、建物強制疎開にかかり、爆心500メートルの町内で転居していた。長女は「店は3日から休んでいましたが、呉海軍工廠(しょう)から仕入れた人が来るというので、私と祖母が疎開していた古田町高須(西区)からいつもより早く出ました。店跡に立つと足の裏に地熱を感じました」。
|
|
死没者の氏名(年齢) 職業▼遺族がみる、また確認した被爆状況▼1945年8月6日の居住者(応召や疎開は除く)と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)
|
野田 モト (53)
野田商事合資会社▼細工町38番地の自宅と紙販売・印刷工場が建物疎開となり、7月末に移った元安川対岸の中島本町の自宅にいた。炊事場跡で遺骨が見つかる▼一人娘との2人。
長女 和子 (25)
県兵事教学課勤務▼亡き父の姉がいた佐伯郡玖島村(佐伯町)に疎開していたが、モトが7月末に迎えに来て戻っていた。(注・遺影はいずれも99年8月3日付の「中島本町U」編で掲載)
坂井 典夫 (59)
額・掛け軸販売「坂井誠美堂」▼細工町1番地の自宅から、雑魚場町へ建物疎開作業に出ていた。遺骨は不明▼妻と子の3人が全滅。旧ソ連での抑留を経て47年に復員した二男信夫は「父は町内会長をしていて疎開しようにもできず、弟は学童疎開していたのが、5日に戻って来て原爆に遭いました」。
妻 ユク (55)
遺骨は不明。五男を連れて町内の清病院に行ったらしい。
五男 正信(12)
袋町小6年▼双三郡に学童疎開していたが、じを悪くして帰宅し
ていた。
木村 義子 (45)
木村タンス本店▼夫婦で疎開していた安佐郡祇園町長束(安佐南区)の妹宅から前夜、細工町2番地の自宅に戻り、近所に出掛けたらしい。遺骨は不明▼
夫伊三郎はタンス組合の仕事で芦品郡府中町(府中市)へ出張した帰りの5日、呉市にいた長男夫妻を訪ねて泊まっていた。長男の妻通子は「義父と夫はその日、私は8日に入りました。焼けた茶がまや金庫が転がっているだけで…。義母は、原爆の1年前に結婚した私の嫁入り道具一式も長束に大事に移していました。今も持っております」。
平瀬 耕一 (55)
陶器販売「(やまちょう)」▼雑魚場町で建物疎開作業をしていた。9日、宇品町の陸軍運輸部で死去。遺骨は不明▼妻子との3人。爆心680メートルの中国配電(現・中国電力)本店で被爆した一人娘の央子は「父は私を見つけ、通り掛かったトラックで陸軍運輸部へ運んだそうです。気がつくと父がそばにいました。運輸部で亡くなった人たちの遺体は、安芸郡坂町の山中に埋められ、後に捜すと土砂崩れで墓標も流されていました」。
妻 ヤス (47)
猿楽町47番地の自宅が建物疎開となり、転居した筋向いの元時計店跡で遺骨を確認。日本移民が多かったカナダ・バンクーバーから31年、夫の両親をみるため家族3人で帰国した。(注・遺影はいずれも97年7月23日付の「猿楽町」編で掲載)
島本 秀吉 (56)
島本理髪院=写真・市議会副議長▼細工町3番地の自宅玄関で、市役所に向かうため靴を履こうとしていた。自力で観音方面(西区)まで逃げ、途中トラックに乗せられて運ばれた佐伯郡五日市町(佐伯区)の妹宅で9日死去▼香川県から復員した二男学は「戦争が終わり、18日ごろ自宅がれき跡に帰ると『叔母の家に来い』との立て札があり、父が死んだのを知りました」。秀吉は理髪業組合の代表を務めたほか、基町(中区)にあった師団司令部を訪ねた秩父宮の調髪をしたことで知られた。従業員5人が住み込み。
増田 静香 (21)
従業員▼理髪院の台所にいた。一緒に働いていた兄準一が9日、バンドの金具から遺骨を確認。「当時は5日と17日が公休日で、私は妻を疎開させていた高田郡甲立町(甲田町)を泊りがけで訪ね、泉邸(中区・縮景園)で原爆に遭いました。ほかの弟子たちの消息は聞いたことがなく、どこかで死んだと思われます」。
黒川 節司 (55)
医師(内科医)▼細工町12番地の病院から往診に出掛けていた。遺骨は不明▼賀茂郡西条町(東広島市)に疎開していた二女桂子は「入院患者さんが退去した7月ごろ母や兄と疎開し、父だけが残っていました。私一人で5日戻った際に、患者さんから頂いたアユを分けて食べたのが、忙しかった父と最初で最後の二人だけの食事になりました。病院跡には、遺骨だとはっきり分かるほどのものは見当たらなかったそうです」。
上川 守 (18)
病院運転手▼病院長の往診に普段から付き添っていた。遺骨は不明。郷里の高田郡生桑町(美土里町)から捜しに来た妹枝折は「木炭バスの車掌をしながら車の免許を取ったようです。兵隊にとられた時を考え、自分の髪の毛やつめを実家に送っていました」。病院のダットサン車は8月1日、海軍に徴収されていた。
古谷 春子 (年齢不明)
お手伝い▼住み込み看護婦数人も爆死したとみられるが、詳細は不明。
高坂 孝三 (26)
高坂商店▼細工町15番地の自宅兼店舗にいたとみられる。遺骨は不明。東京から1カ月前に郷里へ疎開し、店を手伝っていた姉の斎藤繁子は「ふりかけを作っていた跡に、しゃがんでいた格好の骨があり、それを持ち帰りました。孝三か、働いていた女性かどうかは分かりません」▼妻は出産を控え、佐伯郡五日市町にあった孝三の実家・松井の別宅にいた。広島で初めてマッチを製造した高坂萬兵衛(38年死去)が開いた食料品・洋酒問屋を受け継いでいた。
田渕 顕二 (59)
県地方木材株式会社勤務▼猿楽町15番地の県産業奨励館(現・原爆ドーム)2階にあった事務所に出勤し、遺骨は不明▼妻子との3人。千田町2丁目の自動車配給会社で被爆した長男英明は「母から電話があり、話をしていた最中に木造事務所の下敷きになっていました。何を話していたのか…。その時点の記憶も吹き飛ばされました」。
妻 実野 (57)
経理事務をしていた高坂商店にいた。遺骨は不明。長男が店の地下室跡で、金庫の中にあった縁が焦げた母名義の貯金通帳や株券などを遺品として保存する。
相野田 治子 (28)
爆死。めいの森岡寿美子は「兄になる亡き父から、妹が一人原爆で死んだと聞きましたが、詳しいことは分かりません」▼実家は細工町19番地の山陽医院(産婦人科)。父の佐波古直明は山県郡新庄村(大朝町)の診療所長として7月ごろ、妻や二男を伴い赴任していた。(注・遺影なし)
島本 勝人 (51)
てんぐ食堂・広島郵便局勤務▼細工町30番地から、筋向いの郵便局に出勤していたとみられる。遺骨は不明▼妻と2人。勤め先の南観音町の旭兵器製作所で被爆した二男泉男は「7日昼ごろ入ると、すべてが押しつぶされ、何がなんやら分からない状態でした。ただ跡を見るだけでした」。北隣のビリヤード「キャット」から南側の本通り筋にかけての世帯は、7月末までに立ち退きを命じられていた。
妻 すず (39)
遺骨は不明。うどんや、どんぶり物を扱う食堂を37年ごろから営んでいたが、物資の配給統制により、夫は郵便局に勤めるようになっていた。(注・遺影なし)
木村 康子 (24)
パン製造・販売「翁(おきな)パン」▼細工町31番地の本宅へ荷物を取りに戻っていた。義父八十二が遺骨を確認▼本通りに面する細工町39番地のパン工場が春に建物疎開となり、応召中の夫の両親と長男の4人で安佐郡安村(安佐南区)に疎開していた。3歳だった長男信孝は「村から出る馬車に乗せてもらうため、その日に限っていつもより早く出たと聞いています。店は、大正年間に食パンや菓子パン製造を始め、軍にも納めていたそうです」。
森冨 修一 (42)
常友寝具店▼細工町34番地の店が建物疎開となり、猿楽町の住まいから3月に移った鳥屋町19番地(中区大手町2丁目)の自宅にいた▼子どもと母、めいの6人のうち5人が爆死。学徒動員先の三菱重工業己斐分工場で被爆した市造船工業学校(現・市商業高)3年の二男茂雄は「自宅跡に4体の遺骨があり、行方不明の弟の分も含め5つに分けて墓に納めました」。
母 トメ (72)
爆死。8月初め、疎開していた安佐郡亀山村(安佐北区)から孫康雄と保の3人で戻っていた。
三男 康雄 (12)
市造船工業学校1年▼現在の平和記念公園西側での建物疎開作業に動員されていた。遺骨は不明。
四男 保 (10)
広島陸軍偕行社付属済美小5年▼自宅で爆死したとみられる。
めい 藤野定子 (19)
爆死。森冨家族と一緒に暮らしていた。(注・藤野を除き、遺影は97年7月23日付の「猿楽町」編で掲載)
筒井 唯一 (49)
履物「丸米」▼細工町29番地の自宅か、町内の知人宅にいたとみられる。遺骨は不明▼娘2人と両親を疎開させ、一人でいた。病死した母の郷里、佐伯郡厳島町(宮島町)に縁故疎開していた小学5年の長女照子は「叔父から広島に行くのを止められ、どうなったのか今も想像するしかありません。祖父が使っていた握りハサミが跡から見つかった。一人残った私が知っているのはそれだけです」。
二女 泰子 (4)
遺骨は不明。祖父母と白島方面(中区)に疎開していた。
父 孫兵衛 (73)
遺骨は不明。妻と孫とともに朝は、自宅へ帰っていた。
母 マサ (70)
3人一緒に爆死したとみられ、遺骨は不明。
酒井 忠勝 (27)
土建業▼遺骨は不明▼国が広島市へ44年11月に命じた建物疎開を
請け負い、結婚を機に45年春、兄たちと同居していた佐伯郡井口村(西区)から細工町内に移り住んでいた。井口村で一緒に住んでいた、おい廻舩博通は「叔父は結婚してまだ半年足らずでした。確か、細工町の木村さんという家に間借りしていたと思います」。
妻 忠枝 (22)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
|
|