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ヒロシマの記録−平和都市法50年
廃虚からの再建
芸術論争を呼んだ平和大橋
米国の対日資金援助を受け、52年にできた平和大橋の完工式。西平和大橋とともに高欄のデザインは、後にパリのユネスコ日本庭園も手掛けたイサム・野口氏が担当した。平和大橋の高欄について、本人は「生きる」と名付けていた。斬新(ざんしん)奇抜なデザインから建設時には「イモ虫みたい。子どもが川へ落ちる危険がある」などと、市議会で「芸術論争」が交わされた。
52年6月3日
撮影