山本 哲朗(16)
安佐郡祗園町南下安(安佐南区)▼祗園小▼8月6日▼父吉男が捜したが、遺骨は不明。動員先だった三菱重工業広島機械製作所へ向かう途中に爆死したとみられる。
天野 忠信
木村 悦男
谷岡 正明
【5年】
出雲 照三(16)
広島市比治山町(南区)▼段原小▼8月10日▼母ユキ子と広島工専3年だった兄祥二らが8日、宇品町の陸軍船舶練習部に収容されているのを見つけ、兄の友人が住む佐伯郡大柿町へ運ぶ。二中OBの兄祥二は「学校の命で三菱の工場から伝令に出たようです」▼広島市女1年の妹章代(12)は中島地区の建物疎開作業に出て、遺骨は不明。
《呉空襲戦災死》
檪本 酋(ひさし)(17)
呉市内に下宿。実家は安佐郡川内村(安佐南区)▼千田小▼6月22日▼通年動員されていた呉海軍工廠の第一製鋼工場内で死去。二中3年だった弟忠行は「昼夜交代で働き疲れていたせいか、山側の防空ごうに避難する同級生とは別に、工場内の防空ごうにとどまり爆弾に直撃されたそうです」
眞末 隆生(18)
広島市仁保町(南区)▼不明▼6月22日▼動員されていた呉海軍工廠で死去。
◇
『呉市史』(87年刊)によると、6月22日の呉空襲で海軍工廠南西の造兵器地区が集中攻撃を受け、動員学徒や女子てい身隊を含む325人が死亡した。
《教職員》
市川 邦彦(54)※注
広島市舟入川口町(中区)▼22年着任。担当は図画▼8月10日▼舟入連合町内会の義勇隊として爆心1キロ雑魚場町の建物疎開作業に動員され、妻子が疎開していた山県郡加計町で死去。普段は4年生を三菱重工業広島機械製作所(西区)に引率していた。
唐崎 忠夫(57)
広島市白島西中町(中区)▼29年着任。国語・漢文教諭▼8月6日▼当直明けの木造2階建て校舎で焼死。四女泰子は「遺骨の分からぬ生徒さんに比べ、見つかっただけでも幸せです。原爆の8年前に母が亡くなり、父は子どもたちの弁当づくりから買い出しまで自分を犠牲にして世話をしてくれました」。
仲山 岩夫(41)
広島市白島中町(中区)▼30年着任。担当は英語▼8月9日▼5学級担任として作業現場に出る。遺骨は不明。学童疎開していた二女洋子は「父は広島赤十字病院で9日、出会った卒業生に名刺を手渡して『家族に生きていることを伝えてほしい』と言ったそうです。上級生の動員先だった呉から戻り、1年生を引率したと聞きます」▼二男誠(1つ)は自宅の下敷きになり、6日死去。
升田 龍一(44)
広島市西白島町(中区)▼40年着任。担当は国文・漢文▼8月6日▼1学級担任。小学3年だった三女利根は「作業現場跡で生徒さんたちに覆いかぶさるようになっていたのを、先生たちが見つけてくださったと聞いています」▼二女の白島小6年菅根(12)は自宅で被爆し、6日死去。
松永 高三(たかぞう)(43)
二中東寮官舎▼37年着任。担当は数学▼8月6日▼二中校舎の下敷きとなり、午後8時ごろ死去。長女喜代子は「看護の生徒さんに『これを洋に渡してくれ』と腕時計をことづけましたが、洋は付けることはできませんでした」▼一人息子で1年2学級にいた洋は作業現場で被爆し、運ばれた佐伯郡平良村(廿日市市)で7日死去。
箕村 登(60)
広島市牛田町(東区)▼39年着任。担当は数学▼8月7日▼4学級担任として現場へ。生徒たちが言い残したところによると、被爆直後に「川に飛び込め」と避難を指示したという。長男正道は「引率責任者としての行動をとったのではないかと思われます。己斐の知人宅で亡くなり、二男が復員後に遺品の懐中時計を受け取りました」。
坪河シズノ(17)
広島市舟入幸町(中区)▼4月着任。教官室事務員▼8月11日▼町内から動員された雑魚場町の建物疎開作業中に被爆し、姉君子らが実家の佐伯郡三高村(沖美町)に運ぶ。姉は「『なんで神風は吹かんかったんかねぇ』と言ううちに、意識がなくなっていきました」。
山本 信雄
【お断り】市川邦彦さんの邦は です。
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