インド、パキスタンの核実験応酬から約二カ月がたつ。あの日から五十三年たって直面したアジアの核軍拡。ヒロシマは奮い立ち、被爆者はしゃく熱の両国で平和行脚をした。被爆地からの発信を受け止め、広げようとする活動が芽生えている。その動きを広島と全国に追った。
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原爆展実現へ支援バザー'98/7/22
(1)一人の挑戦
インド体験 テレサに共感
インドでの原爆展を支援するため、フリーマーケットでチャイを販売する小林さん 鮮やかなオレンジ色のパンジャビドレスが目を引く。インドの民族衣装をまとった小林純子さん(35)=広島市南区北大河町=が、あぐらをかいて道端に座り込む。傍らの七輪で湯を沸かし、インドのお茶「チャイ」を売る。
南区の旭町商店街で十八、十九の両日、開かれたフリーマーケット。インドで計画されている原爆展を支援するため、バザー店を出した。手づくり絵はがきや、知人から譲り受けたせっけんも販売する。
一九九三年、初めてインドを訪れた。ノーベル平和賞を受けた故マザー・テレサが、カルカッタに建てた施設「マザーズ・ハウス」にボランティアとして加わった。テレサに出した手紙の返事と、二十万円を頼りにリュックサック一つで海を渡った。
島根県の山あいの町の兼業農家の長女。小中学校時代、無口だった性格が、いじめの対象となった。今も心の傷として残っている。
「あの差別体験が、テレサの心に少しでも近付きたい気にさせたのでしょう」。九〇年ごろ、テレサの活動を紹介するテレビを見て、ボランティア志願の手紙を書いた。
カルカッタでは「死を待つ人の家」と呼ばれる施設に配属となった。最初、足を踏み入れたとき、目を覆った。あばら骨が浮き上がり、食事もできないほど衰弱した数百人の人々。「疫病と貧困で死にゆく人たちに接し、怒りや悲しみという感情では動かせない現実があった」
一日五十ルピー(約百五十円)の安宿に泊まり込んだ。男女の区別なしの雑魚寝をしながら三カ月間、施設に通い、介護、食事や洗濯、掃除に汗を流した。
帰国後は、従来通り臨時保母をしながら、手話や障害者介護などボランティア活動に打ち込んだ。昨年からは在宅介護の仕事で生計を立てている。
五月十一日、インドが核実験を強行した時、悔しくてたまらなかった。「死を待つ人の家」の多くの病人たちの姿が浮かんだ。ベッドに伏し、どの目も生への切望を訴えていた。「核爆弾一個を作るお金で、何万人もの国民が救えるのに」。核に頼る政治の愚かさに、胸が痛んだ。
その直後だった。インド南部ケララ州から、一通の手紙が届いた。「いつか、原爆展を開きたい。できれば、被爆者にも来てほしい」。昨年八月、広島を訪れたインドの平和運動家が、案内役を務めた小林さんに協力を求めてきた。
仕事をしながら、ボランティア活動をする生活は苦しい。一DKのアパート暮らし。食費は一日数百円に抑えている。「小さな運動でも、スタートしなければ何も変わらない」。小遣いで購入した原爆写真集を添え、支援を約束する返事を出した。
一杯百円のチャイなどの売り上げは二日間で一万二千円。「地道に続け、資金がたまったら、被爆者とインドへ行きます」。首に掛けた聖マリア像のメダルを握り締めた。カルカッタを離れる際、テレサから贈られた記念品である。
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