それぞれの自宅で肉親の遺品を手に、今もはっきりしない原爆被災 の様子を語る永木(旧姓岡本)博子さん(右)と三上義之さん |
「仮に姉と間違われたとしても姉の遺骨は私が拾っているんで す。なぜ、私の名前が載っていたのか、確かめようがないとはい え、気になります」。当時十四歳、山中高女の三年生だった。
同窓会名簿に「死去」
生家は、ドーム東側の「猿楽町四十四番地」で味噌(みそ)の製 造・卸を営んでいた。四人家族。両親と姉が原爆死した。父岡本英 夫(42)は防空警戒に、母エイ(40)は建物疎開にそれぞれ出ていた。 県立第一高女五年の姉房子(18)は体調を崩して、呉の広航空廠(し ょう)から帰宅していた。
「私は学徒動員で三菱の造船所(爆心地から約四・三キロ)にいた んです」。翌日、あらかじめ町内の避難先にいわれていた緑井村 (現・安佐南区)にたどり着く。一足違いで息絶えていた姉のおさ げ髪を切り、遺体を河原で焼いた。続いて二十二日、安佐北区の疎 開先に運ばれてきた母が亡くなると、知り合いの婦人の助けを借り て死に装束を着せ、自分で火をつけた。父は行方不明であった。
「泣き叫ぶ年ごろでしょ。しかも高熱にうなされていたのに。ど うしてできたのか…。われながら不思議です」。被爆の混乱が続く さなかの九月、香川県の親族に引き取られ、そこで女学校を卒業し て結婚。旅行会社に勤めていた夫の仕事で転勤が続いた。母校袋町 小の同窓会名簿でも「死去」となっていた。旧友が気づき、直った のは十年ほど前という。
母と同じ名に戸惑い
「私のところは母と同姓同名が載っているんです。墓の骨が違う といわれているようで…」。安佐北区に住む三上義之さん(63)は、 市が毎年夏になると公開する無縁仏の「納骨名簿」に、戸惑いと一 抹の不安を覚える。
仏壇に供える一家の「名簿」には、五人が「原爆死」と記されて いた。祖母タメ(75)、母朝子(38)、二男正人(12)、五男誠夫(2ツ)。 「猿楽町七十一番地」の自宅が建物疎開を命じられて移った「油屋 町」(爆心地から約五百メートル)にいた家族全員が犠牲になった。応召 にあった父や、縁故疎開をしていた小学六年の三上さんに代わっ て、母の妹が探しに入った。
「母は誠夫をねんねこ半てんに背負い、自宅にあった防火水槽の 中で死んでいたそうです」。叔母は半てんの柄にも見覚えがあった ことからトタン屋根の上で焼き、納骨した。「それが十年以上前に なりますか、遺骨名簿にある名前は母のことじゃないかと親せきの 者から聞いて以来、気持ちがねぇ…」。
市の「納骨名簿」には「三上アサ子」との氏名が載る。「投下直 後の中を探してくれた叔母のことを考えると、たまたま同じ名前が あった。そう思うしかない。それにしても浮かばれん話ですよね」
一九四五年末までに死没を確認した猿楽町の住民は百十二人を数 えた。その多くが遺骨が不明のままであり、納骨できた遺族も「多 分間違いない」。半ば言い聞かせてであった。