「それぞれの遺骨は、歯形や身に着けていた物で確認しました」。 家族の墓に花を供える林美子さん(5月21日、広島市中区寺町) |
父甚太郎(61)、母トラ(58)、二女君子(33)、三女花子(31)、長男 秀太郎(28)、四女幸子(23)、おいで幸子の長男護(まもる)=生後 八カ月。いずれも原爆ドームから東約二百メートルの「猿楽町五十八番 地」にあった清水組(現・清水建設)広島支店と、隣接する社宅で 亡くなった。
「父とすぐ上の姉、私の三人が清水組にお世話になっていたんで す」。張りのある声で、川崎市中原区に住む五女の林美子さん(73) が振り返った。
建物疎開で移り住む
広島支店が一九七五年に編さんした『30年のあゆみ』によると、 「日支事変(注=三七年)の拡大とともに、軍の特急工事を続々と 命じられ」とある。畳職人だった父は整務員、同窓の姉に続いて林 さんも広島女子商を卒業すると四一年、タイピスト事務員で入社。 やがて「尾道町(中区大手町二丁目)の自宅が建物疎開に引っ掛か り、護が生まれて間もなく社宅へ」移った。
国は都市部での空襲による延焼防止を理由に建物疎開を告示し、 広島市では四四年十一月に始まった。「総力戦」の掛け声の下、庶 民は立ち退きを迫られる。かといって、住まいはおいそれと見つか らない。林一家は、留守番がてら社宅に移るしか、すべはなかっ た。とどまったとしても、一度に戦略爆撃機B29三千機の襲来を超 す威力を持つ原爆は、尾道町も吹き飛ばした…。
「父は支店の玄関前、ほかの者は台所で朝のお膳を囲んでいたの か、丸く並んだ格好で見つかりました」
林さんは、たまたま休みを取って南区に住む知人を訪ねる途中だ った。混乱のうちに、ぼう然自失のまま会社を辞めて、洋裁で身を 立てようとした。が、言いようのない寂りょう感はぬぐえなかっ た。
肉親の元で眠りたい
「右ノ者昭和二十年八月六日ノ戦時災害ニ依(よ)ル罹(り)災 者タルコトヲ証明ス 東警察署長」。今も保存する一片の紙を携え て、単身上京したのは五四年。「狭い広島でくよくよするより出て 来たら」。原爆の熱線によるケロイドを負った旧友たちも新しい人 生に踏み出していた。決して独りぼっちではなかった。
「それからですよ。強くなったのは」。紹介された都内の新聞輸 送会社で、六十歳の定年まで働く。その傍ら、神奈川県原爆被災者 の会に加わり、「あの日」を体験した者として、県内での原爆死没 者の追悼に取り組む。
「聞かれれば、私は体験したことは話します。すると、向こうで は『広島生まれの人は強いわね』と言われるんですよ。放射線遺伝 の偏見や、毛布一つさえもらっていない空襲罹災者のことを考え て、口ごもってしまんですね」。広島を離れて生きる被爆者だれし もが経験する思いを歯切れよく述べた。自身「のんきな性格」と笑 った。
その彼女にしてからが、死んだら郷里に戻るという。「やはり親 兄弟がいますからね」。墓石の後ろには「平成三年九月林美子建 立」と赤い字で刻まれていた。