子供愛した甲子園球児/坊ちゃん

中央が岩崎良太郎さん。子どもたちは翌年からの
集団・縁故疎開などで街を離れたが、大半が親を失った

(1944年6月、広島護国神社)


 肩幅の広い青年を取り囲むように、いがぐり頭や、おかっぱの頭 の子どもたちが並ぶ。そばに映る旗は「猿楽町西組子供常会」と読 める。写真の裏にはスタンプで「昭和十九年六月五日」と押してあ った。

 持ち主の今田宏行さん(64)=広島市中区=は「猿楽町の北側にあ った西練兵場内の護国神社で撮ったものです」と説明し、青年は 「岩崎さんといって、よくかわいがってもらった」と目を凝らし た。

音楽教えハイキング

 町内で「坊っちゃん」の愛称で知られた青年は戦時中も、子ども らを集めては歌の指導をしたり、記念写真を撮って配り、今でいう ハイキングも催した。写真の一人、井林(旧姓藤井)越子さん(62) =佐伯区=は「背がすらっと高く、ドーム前の元安川で泳ぎも教え てもらった」と、昨日ことのように話す。

 青年の左二人目に映る笠井恒男さん(63)=佐伯区=も、老舗(し にせ)のたたずまいが漂う「坊ちゃん」宅で、レコードを聞かせて もらったという。

 「バッハやベートベンを知ったのが初めてなら、耳を傾けたのも あれが最後」。苦笑しながら「大八車で緑井村(現・安佐南区)へ 疎開するのを手伝ったが、戦後見掛けたことはない。多分亡くなっ たのでは…」

 青年の自宅はドームの東百メートル足らずの「猿楽町四十四番地」、現 在の市民球場前の電車通りと一本南の通りまで伸びていた。広島築 城以来の城下町の風情をとどめるように、堀だった電車通り側の入 り口には、雁(がん)木が残っていた。

 写真を手に青年の消息を探すうち、戦前から全国にその名をとど ろかせた「広商野球部」にいたのが分かった。高校野球史を繰る と、一九三六年のセンバツに「一塁手岩崎良太郎 4打数1安打」 の記録があった。数少なくなったチームメイトのうち同じクラスで もあった丸山猛さん(77)=安佐北区=がはっきり覚えていた。

 「身の丈一八六センチ。学年随一の長身で、その次が私でした」。あ だ名は「電信柱」。卒業後は慶応大に進んだが、原爆死した、と聞 いたという。「すがすがしかった」という青年を含めて家族はどう なったのか。再び切れた糸の手掛かりは、やはり猿楽町にあった。

 元住民の一人が知っていた青年の親族を通じて、ただ一人健在の 妹(76)とようやく連絡が取れた。

26歳優しかった兄…

 優れぬ体調を押して「兄は、自宅から商工会議所まで一緒に逃げ た隣の平田さんに『自分がここにいることを伝えてほしい』と言い 付けて…。二十六歳でした。その平田さんも難儀の末に…」と、か 細く答えた。

 岩崎良太郎は、夏の甲子園で優勝した先輩の灰山元治投手にあこ がれて、同じ慶応大に進んだが、胸を患って帰郷。実家のカメラ店 を手伝いながら、子どもたちの世話をしていた。

 父嘉久二(54)の遺骨も不明という。一緒に暮らしていた伯父で町 内会長の永助(57)と伯母サダミ(53)は、避難先にしていた緑井村ま でたどり着いたが、相前後して死去。実家の蔵跡には良太郎が集め たレコードが、こんもり灰になっていた。

 「今でも会議所の前を通るたび、優しかった兄が助けを待ってい たかと思うと…。忘れている訳じゃないけど、触れてもらいたくな いんです。本当にごめんなさい…」。球児の妹は、消え入りそうな 声で受話器を置いた。


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