連動継続への取り組みも
ヒロシマのパネルを前に、長岡原爆展について 話し合う「新友会」会長の遠藤さん(左)たち |
広島の被爆から、四日後の一九四五(昭和二十)年八月十日、新 潟市民に疎開を勧告した「知事布告」の前で、大勢の家族連れが足 を止め、息を飲んだ。昨年八月、新潟市内であった原爆展は、埋も れていた「原爆投下候補地」の事実をあぶりだした。
広島市が主催する初の国内巡回原爆展は、広島、長崎と同じ運命 をたどりかねなかった新潟から始まった。開催期間はわずか五日だ ったが、約一万二千人が詰め掛けた。
「入場者が少なかったら…」。新潟県民会館の小ホールを会場に した関係者の心配は、杞憂(きゆう)に終った。待ち時間は三時間 にも及んだ。「私らだけでは、到底、あれだけの人がこなかっただ ろう」。県内の被爆者でつくる「新友会」会長の遠藤健一さん(77) は、盛況ぶりを思い出しながら目を細めた。
三十一年前に発足した新友会は毎年八月、市庁舎前で死没者慰霊 祭を営むのが、精いっぱいだった。原爆展の依頼が広島市からきた 時、遠藤さんは二百五十人の会員だけでなく、婦人会や青年団、老 人クラブなど二十七団体にも協力を呼び掛けた。
「あの盛り上がりを一過性にしたくなかった」。原爆展の成功 は、遠藤さんたちを奮い立たたせた。新友会はこの二十七日から、 長岡市で独自の原爆展をスタートさせる。
長岡は、一夜の空襲で千四百六十人が犠牲になった新潟県内唯一 の被災都市。二十五年前に広島から購入した古いパネルに、八十枚 の新しい写真を加えて展示する。「悲惨な空襲を考え直す契機にな れば」。広島で被爆した田中祝男さん(75)は、JR長岡駅前ですし 店を営みながら準備に忙しい。
原爆展は、長岡から一年に十カ所ずつ、県内百十二の市町村すべ てを回る。
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北海道の小樽市でも、十七日から原爆展が始まった。広島市の国 内巡回展の第二弾。レンガ造りの倉庫を改良した「運河プラザ」に は、市民に混じって多くの観光客も詰め掛ける。
市内の被爆者は、わずか十五人。ほとんどが入退院の繰り返し で、原爆展への協力は難しかった。「札幌の被爆者にも手伝ってほ しい」。六月初め、小樽市から協力の依頼があった時、「ノーモア ヒバクシャ会館」の建設に携わった安井晃一さん(73)らは、二つ返 事で引き受けた。
六年前の冬、札幌市内に、会館が誕生した時、展示室には一カ月 に千人もの見学者があった。それが、今は閑古鳥が鳴く。「レンガ一 個分」を合い言葉に、九年間かけて三千八百万円を集め、やっと建 設しただけに、運動の継続性の難しさをかみしめている。
小樽の原爆展開催を支えたのには、もう一つ深い訳がある。募金 が思うに任せなかった時、小樽市内のお年寄りが、「平和のために 役立てて」と土地を託してくれた。その売却金が会館建設を後押し した。恩返しの意味も込めて安井さんは、小樽へ通う。
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日本被団協は今年、初めて自前の原爆パネルを作った。広島、長 崎の写真など四十枚を一組に五百セット。各地から少しずつ、注文 が届き始めた。「一度だけの展示も大切だが、継続した運動に活用 してほしい」。職員は原爆展の広がりを願いながら、八日から発送 を始めた。