一人で全国巡り執筆説得
米国基地で働いた半生をつづる金城さん (沖縄の自宅で) |
「原爆によって、その後の半生がどうねじ曲げられたか、が浮き 彫りになる」。被爆者の軌跡を書き留め、後世に伝える大切さをこ つこつと説く。呼び掛けに、三人が応じた。
一九六八(昭和四三)年、大学生だった栗原さんは、ゼミ実習で 長崎を訪れた。テープレコーダーを肩に被爆者を訪ねた。だが、 「原爆を思い出すと体の調子が悪くなる」と、何度も面接を断られ た。
「どうにかして、物言わぬ被爆者たちの思いをすくいあげたい 」。その時に抱いた一念が、栗原さんの人生を決めた。
九二年、日本被団協を辞め、社会保険労務士に転じた。自由の利 く仕事に就いて、「つうしん」の発行を始めるためだった。独自の 被爆者交流は、あの長崎訪問から四半世紀を経てスタートした。
「ヒバクシャつうしん」の年間購読料二千円を旅費に充て、栗原 さんはこまめに全国の被爆者を訪ねる。「部隊をともにした、あの 人が書くのなら、私もぜひ書いてみたい」。熱心な勧めに、この五 年間で二百五十人がペンを手にした。
栗原さんの訪問から半月余り。米軍嘉手納基地に近い沖縄市園田 一丁目の金城文栄さん(69)は、ランニング姿で机に向かった。「過 去から逃げていたのかもしれない」。全国の仲間の「告白」を読 み、やっと踏ん切りがついた。
「原爆を落としたアメリカに雇われるのは、無論いやだった。で も生きていくためには、仕方ない選択だった」。造船所勤務の長崎 で被爆。けがは免れ、二年後、沖縄米軍司令部に大工の職を得た。 金城さんは被爆の惨状だけでなく、旧敵国に生きる糧を求めざるを 得なかった苦悩を記すつもりだ。
「つうしん」五十五号は、若者ボランティアのワープロで清書さ れ、まもなく四十一県、四百八十人の定期購読者のもとに届く。
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東京都港区のマンションの一室に、「平和と戦争博物館」はあ る。昨年十一月、市民団体の「平和博物館を創る会」が設けた、イ ンターネットによる発信基地である。
ここから発信するのは原爆投下の二カ月後に撮影した広島の写真 百九十六枚。戦争の記録収集や写真集発行などを通じて、平和運動 に参画してきた専務理事の岩倉務さん(63)は、「瞬時につながるリ アルな映像の重み」を力説する。
今月初め、米国・ネバタ州の女性から一通のメールが届いた。 「臨界前核実験の強行は、米国のおごりだ。忘れてはならない原爆 投下の記憶を、被爆写真は呼び起こしてくれた」と入力されてい た。
ネバダ発のような、名もない有志からの返信は、まだ百件余りだ が、海外から被爆写真へのアクセスは、すでに一万件を超えた。 「国境を超え、平和への願いは確実に広がっている」と岩倉さん。 「各国にこうした発信基地ができれば、居ながらにして、世界の戦 争被害がわかるようになる」。
「平和博物館」には、近く長崎の写真も加わる。六十年代、核攻 撃に備えて軍事研究用につくられたインターネットの中を今、「平 和の伝令」が駆け巡る。