「希望の象徴〜ヒロシマ〜」へ熱い期待  
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 八月六日の広島原爆の日、インド、パキスタン両国では、市民に よるさまざまな規模の「ヒロシマ・デー」が開かれている。地球上 から核廃絶を求める被爆地に連帯し、平和を願う市民による反核活 動。だが、両国市民にとって「ヒロシマ・デー」は、単に核廃絶や 世界平和を求めるだけの日ではない。貧困、エイズ、人種・宗教紛 争…。廃虚から復興した広島は、これらの問題を克服することので きる「希望の象徴」として存在する。印パ三都市の「ヒロシマ・デ ー」の取り組みと、被爆地に寄せる思いをつづる。
(田城 明編集委員)


年々増える参加者「印」 原爆展に少女ら1000人「印」 妨害にめげず再結集「パ」


‖ムンバイ市(印)‖
年々増える参加者
反核ポスター大学生ら担う

被爆51年の「ヒロシマ・デー」で、反核平和の願いを込めた横断幕や
プラカードを掲げ、目抜き通りをデモ行進する若者ら市民
(1996年8月6日、ムンバイ市)=MSM提供

 「私たちは原爆でなく、パンが欲しい」「ノーモア・ヒロシマ・ ナガサキ」…。

 昨年八月六日の原爆記念日。ムンバイ(旧ボンベイ)市の目抜き 通りに横断幕やプラカードが揺れた。学生たちを中心に子どもたち からお年寄りまで約八千人が参加した「ヒロシマ・デー」平和行 進。参加者は二キロの道のりを歩きながら、数万人の沿道の市民に反 核平和をアピールした。

 「八月はモンスーンの季節で雨の日が多くてね…。この日も途中 から雨。でも、平和行進に加わる者は毎年増えている」。ボランテ ィアの社会活動家ツーシダス・ソマイヤさん(59)は、平和ポスター が並ぶ事務所で言った。

「選択の時・・・」と題した反核平和ポスター。
ムンバイの学生たちが作成した
「ヒロシマ・デー」開催の主導者の1人、
ツーシダス・ソマイヤさん
(ムンバイ市)

 一九八七年から「ヒロシマ・デー」を主催している市民平和団体 「ムンバイ・サボーダイ・マンダレ」(MSM)の中心メンバー。 「すべての人々への福祉」を目指すMSMは、インド独立の父マハ トマ・ガンジーの非暴力主義を信奉する。

 「多くの国民は軍事費にどれだけ金を使っているのか知らない。 放射線の人体や環境への影響についても知識がない。ヒロシマ・デ ーを通して、核戦争を思い起こし、こうした問題について考えるき っかけを与えている」と、ソマイヤさん。

 MSMでは、若者を対象にしたキャンプを何度も田舎で開いてい る。ヒロシマ・デーを支えるのは、キャンプに参加した大学生や高 校生が中心である。彼らが工夫をこらした反核平和ポスターを作 り、「八・六」以後、ムンバイや周辺の各大学で巡回展を開催す る。

 「私たちはインド政府に、包括的核実験禁止条約(CTBT)に 加盟するよう訴えている。ガンジーの思想、生き方を信奉する者な ら当然の帰結だよ」。ソマイヤさんは、明快にこう言い切る。

 「ヒロシマ・デー」には、多くの市民グループも加わる。全国に 約二万人の会員を擁する「市民的自由を求める人民連合(PUC L)ムンバイ支部」もその一つ。

 支部長で全国副会長も務めるヨゲッシュ・カムダーさん(45)は、 広島市民への期待を込めて言った。

 「九七年の八月には、広島、長崎で第四回世界平和連帯都市市長 会議が開かれる。ムンバイ市の代表も前回に続き参加を予定してい る。地元でのヒロシマ・デーでは、被爆地の平和への熱い思いがも っと伝わるような内容にしてゆきたい。ぜひ、そのための協力をし てほしい」

 六月下旬、電話連絡したカムダーさんによると、既に今年の八・ 六に向け、学生たちが反核平和ポスターの作製などにかかってい る、という。

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‖インパール市(印)‖
原爆展に少女ら1000人

「ヒロシマ・デー」に合わせ、ガンジー記念ホールで
開かれた原爆展に見入る女性たち

(1996年8月6日、インパール市)=インド・日本親善協会提供

 ミャンマー国境に接するインド北東部マニプール州。人口約二百 万人。その州都インパールでも、一九九五年八月六日の被爆五十周 年から「ヒロシマ・デー」を開いている。

 「第二次世界大戦中の四四年、日本軍がインパールに侵攻し、イ ンドを植民地支配していた英国軍と戦った。戦死した日本兵の遺骨 収集のために遺族が訪れるなど、以来日本とのかかわりは深いんで すよ」

 「ヒロシマ・デー」を主催する「インド・日本親善協会」事務局 長のナンダクマール・シャルマさん(42)が、達者な日本語で言っ た。

ナンダクマール・シャルマさん

 市中心部にほど近い木造家屋の二階にある協会事務所。日本語教 室も兼ねた約六十平方メートルの部屋の壁には、富士山や五重の塔、着物 姿の女性など日本のカレンダーから取り出したポスターが所狭しと 張られている。

 「戦争の悲惨と平和を愛する心を若い世代に伝えたい。それがヒ ロシマ・デーを持つようになったきっかけです」

 ガンジー記念ホールであった昨年の被爆五十一周年記念式典。参 加した市民約五百人は、原爆が投下された八時十五分に犠牲者のめ い福を祈り二分間の黙とうをささげた。続いて平岡敬広島市長の平 和宣言が英語で読み上げられた。

 ホール内の展示会場では、広島市から入手した原爆ポスターを長 崎原爆の日の九日まで展示。少年少女ら千人以上が見学した、とい う。

 六日の夕方には、地元劇作家の「ヒロシマ」と題した演劇を披 露。被爆した少女の目を通して原爆の恐ろしさを五百人余の市民に 訴えた。

 マニプールや隣接のナガランド州では、大学を卒業しても職につ けないなど、失望から麻薬に手を出す若者が多い。その時、同じ注 射針を使ってエイズに感染してしまう。マニプールでは判明してい るだけでも、約五千人の患者がいる。一方でインドからの独立を求 め武器を取る若者たちも…。

 「事態は深刻です。ヒロシマに触れることで、何とか彼らにも命 の尊厳をもっと分かってもらいたい」。そんな願いを込め、シャル マさんたちは、今年も「ヒロシマ・デー」を開く。

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‖イスラマバード市(パ)‖
妨害にめげず再結集
息長い平和活動を確信

核廃絶と平和を願い植樹した「ヒロシマの木」が
抜き取られた場所を示すノーマン。ナクビさん
(イスラマバード市)

 「ここなんだよ、ヒロシマを記憶するための記念樹を植えたのは …」

 パキスタンの首都イスラマバードの市街地にあるアルゼンチン公 園。その一角を指差しながら、昨年八月六日の「ヒロシマ・デー」 平和行進に参加した非政府組織職員のノーマン・ナクビさん(28)が 言った。

 彼によると、核兵器開発擁護派の宗教団体が翌日デモをし、ナク ビさんらが植えた「ヒロシマの木」を抜いてしまった、という。

 イスラマバードでは、被爆四十周年の一九八五年に初めて「ヒロ シマ・デー」を開いた。その後、休眠状態が続いていたが、被爆五 十周年の一昨年「印パの核開発に反対し、世界から大量破壊兵器を 無くそう」と市民が再結集した。

 昨年は百数十人が参加。「武器ではなく食料を!」といったプラ カードを掲げ、アルゼンチン公園までの約一・五キロを静かに歩い た。

 平和行進の後で、五十センチほどの苗木を植樹。掘り出した土にロー ソクを立て、原爆犠牲者のめい福と世界の平和を祈った。

 翌日の各紙にそのことが掲載された。しかし、複数のウルドゥー 語の新聞には、「デモ参加者は、ローソクを立てわが国の『原爆の 父』であるアブドラ・ハーン博士の墓場をつくり、あざけった」 と、センセーショナルに書き立てた。

 「事実と違うことを書いて、私たちをインドのエージェントと決 め付ける。それが彼らの狙いなんだ」とナクビさん。

 こうした状況下で、反核の輪を広げるのは容易でない。しかし、 ナクビさんはこうも言った。「核抑止論では印パ関係は解決しな い。それどころか、危険が増し、両国市民の生活もよくならない。 デモ参加者は、みんなそんな信念を抱いている」と。だから、少人 数でもこれからは「原爆の日」の平和活動は途絶えない、と確信す る。

 「ヒロシマは私たちにとって核時代の破壊の象徴であると同時 に、希望の象徴でもある」。ナクビさんはそう言いながら、最後に 被爆五十二年の「ヒロシマ・デー」への被爆者派遣を要請した。

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