村の入り口で青年と立ち話をするウディン・バットさん(右)。 紛争地に住む人たちにとって「ヒロシマ」は、大きな存在とし てある。 (ポシュポラ村) |
「被爆の惨禍を体験した広島や長崎市民、日本人なら私たちの苦 しみが分かってくれるはず…」
インド側管理のジャムー・カシミール地方で取材しながら、多く の人々からこんな声を聞いた。
イスラム教徒が圧倒的に多いスリナガル市を中心にしたカシミー ル盆地。一九四七年の英国からの独立もつかの間、インド管理下に 置かれた。「半世紀間、自分たちの自治や独立が奪われてきた」。 その苦しみを訴えるイスラム教徒がいた。
しかし、「苦しみ」や「痛み」を口にする人々の多くは、八九年 末以後に激しくなったインドからの分離独立を求めるイスラム教徒 武装ゲリラと、インド治安部隊の衝突に起因する出来事を指してい た。
「ガン・カルチャー(銃文化)に支配された社会」。彼らはこう 呼んだ。
訓練されたゲリラ部隊がインド治安部隊を攻撃し、橋や道路を破 壊する。治安部隊による反撃。「ゲリラをかくまっているだろう」 「食料を与えているのでは…」。治安部隊は、ゲリラとは無関係の イスラム教徒にまで嫌疑をかけ、時に拷問を加える。
逆にゲリラ部隊も、村を襲って食料を調達したり、「自分たちの ことを密告するのでは」と、罪のないヒンズー教徒を殺害してしま う。
こうした繰り返しの中で、恐怖と疑念と憎悪が、社会にまん延す る。
カシミール盆地からジャムー市とその周辺に避難した十数万のヒ ンズー教徒難民。暫定国境を越えアザッド(自由)カシミールへ逃 れた約一万五千人のイスラム教徒難民。どちらも「ガン・カルチャ ー」がもたらした犠牲者だった。
ぎりぎりの生存を余儀なくされている難民たち。その分、「早く 故郷へ帰りたい」との望郷の念は強烈である。しかし、実現のため には、故郷に平和が戻ることが不可欠の条件。ガン・カルチャーが 続いている間は帰れない。
その難民たちが、宗派の別なくすがるような目で私に訴える。 「戦争の痛みを知るヒロシマから日本政府に働き掛けて、カシミー ルの和平のために手を差し伸べてほしい」と。
暫定国境(支配ライン)に近いポシュポラ村で出会ったイスラム 教徒で大学講師のウディン・バットさん(51)。私が広島からやって 来たと知るだけで、自分たちの苦しみが分かる理解者に巡り合えた というように、心を許し、「村の女性たちがインド部隊からもゲリ ラ部隊からも暴行を受けた」とまで話した。
「私たちがどんなに平和を求めているか、広島市民や日本人みん なに伝えてほしい」
私はバットさんらの訴えを聞きながら、インドやスウェーデン北 部のラップランドなど『世界のヒバクシャ』取材で出会った放射能 被害者を思い出していた。
「山のキノコを食べるなと言われている。なぜなのか」「体内被 曝(ばく)をするとどんな影響がでるのか」「ヒロシマには専門家 がいるだろう。治療に来てほしい」…。訴えるその目は、カシミー ルの人々と変わらない。
ヒバクシャの訴えは、「自分たちの体を何とかしてほしい」と、 ヒロシマに期待を寄せた。しかし、ガン・カルチャーの下に生きる 人々の訴えは「戦争や紛争を終わらせるために力を貸してほしい」 との被爆地への呼び掛けだった。
被爆の実相が、紛争地域の人たちによく知られているわけではな い。にもかかわらず、彼らはヒロシマを「平和の象徴」、廃虚から 復興した「希望の象徴」としてイメージしているのである。
ジャムー・カシミールの人々のヒロシマへの期待、つまり日本へ の期待は、核兵器廃絶の実現だけではなかった。戦争や地域紛争を 終わらせてくれる調停者、仲介者としての役割でもあった。
ジャムー・カシミールの人々のヒロシマへの期待、つまり日本へ の期待は、核兵器廃絶の実現だけではなかった。戦争や地域紛争を 終わらせてくれる調停者、仲介者としての役割でもあった。