原爆慰霊碑に花輪をささげるジャワハラル・ネール首相(左) と娘のインディラ・ガンジーさん。首相の広島訪問は、市民 に大きな励ましとなった (1957年10月9日、広島平和記念公園) |
これまで、七部のシリーズと特集を通じ、カシミールをめぐるイ ンドとパキスタンの対立の実態や、核開発にこだわる背景をリポー トした。一方で、インド亜大陸に位置する両国の身近な関係や、信 頼醸成に努める人々についても紹介した。最後に、取材を振り返り ながら「核危険地帯」とヒロシマ・ナガサキ、そして日本がどうつ ながり合えるのか、その視点と役割を考える。
(田城 明編集委員)
最初に、今回の取材に取り組んだ動機を説明しておこう。
一九八九年、私は中国新聞の『世界のヒバクシャ』取材で、イン ドの核施設周辺の村々を歩いた。村人たちが体験し、目撃した自然 や人体の異変。「放射能」という言葉さ知らない彼らの訴えに耳を 傾けながら、私の内部で葛藤(かっとう)が起きていた。
近くに見える近代的な原子力施設と目前の村人たちの赤裸々な貧 困。二つの光景が、対立し合った。「貧困を無くすために原発が必 要なのだ」。そう主張する人もいるだろう。しかし、「原爆」と 「貧困」の共存は、被爆者らの取材を重ねてきた私の中ではどうし ても折り合いがつかなかった。
いや、それ以上に、インドは非暴力抵抗主義で英国植民地から独 立を導いた建国の父マハトマ・ガンジーや、米ソ冷戦下、非同盟諸 国のリーダーとして原水爆実験禁止を訴え続けた初代首相ジャワハ ラル・ネールを輩出した国である。
被爆十二年後の五七年十月九日。その日の中国新聞夕刊一面に 「ようこそネール首相」「愛嬢と原爆慰霊碑に花束」の大見出しが 踊る。
この日を記憶する広島市民は、決して少なくないだろう。「世界 の偉大な平和の使徒」を迎えた広島市は、歓迎一色に包まれた。三 万人が参集した平和記念公園での歓迎大会。首相の「広島市民へ贈 る言葉」は、復興途上の市民を励まし、核廃絶と世界平和を訴える 「ヒロシマの決意」に勇気を与えた。
ネール首相は言った。「原水爆禁止のみならず軍備縮小を進め、 恐怖心を排除し、お互いに信じ合い友情をもって楽しく暮らすこと のできる世界をつくってゆかねばならぬ」
「われわれは水爆の発明によって一つの回答を求められている。 これは再び原水爆を悪用して人類を破滅させるか、愛と仏の教え、 慈悲の精神によって世界を作るかというものである。…私は“ヒロ シマを学べ”と世界に訴える」
ヒロシマにとって「尊敬すべき指導者」のいるインド。そのイン ドが一方で多くの貧困層や社会基盤整備の遅れを抱えながら、なぜ 原爆開発を追求するのか。一度も訪ねたことのなかった隣国パキス タンとなると、人々も社会も一層実態が見えなかった。
その両国がジャムー・カシミール地方の帰属をめぐって今も激し く対立を続ける。
「次にヒロシマが起きるとすれば印パ間においてだ」。その後米 国などで取材しながら、核問題専門家らからこんな声を聞く時、広 島市長が平和祈念式の「平和宣言」で、核拡散の危険を訴えるだけ では、ヒロシマの役割は果たせないと思った。
まずは両国の対立の実態を知ること。そしてなぜ彼らが核開発に こだわるのか、それぞれの思いを深く知ることで、初めて被爆地か らのアプローチも可能だろう。私はそう思った。
後に首相になった「愛嬢」のインディラ・ガンジー。広島に同行 した彼女が七四年、インドで最初の核実験を実施したのは歴史の皮 肉だろうか…。
取材動機の大きな要因の一つだった広島訪問時のネール首相の言 葉。私は自国民の間で忘れられようとする指導者の精神を復権させ たいと、機会あるごとにインド人に彼の言葉を紹介した。
少数とはいえ、ガンジーやネールの平和思想を受け継ぎ、自国の 核兵器開発に反対している人たち。彼らとの出会いは、延べ百日余 にわたる長期取材に活力を与えてくれもした。