人権活動家と話し合うムバシ・ハッサンさん(左)。「い い面も悪い面も、パキスタンのことをもっと日本人に伝 えてほしいね」 (ラホール市) |
一九九四年に誕生した印パ両国市民による「平和と民主主義を求 めるパキスタン・インド人民フォーラム」。提唱者の一人、パキス タンの元大蔵大臣ムバシ・ハッサンさん(75)を、ラホール市内の自 宅に訪ねた。
「パキスタンとインドは、五十年間対立政策を取り続けてきた。 もうその政策は変えないとね」。居間のいすに腰を下ろしたハッサ ンさんは、言葉をかみしめるように言った。
百八十センチの長身。視線をそらさぬ眼鏡の奥の柔和な目。民間組織 「パキスタン人権委員会」の有力メンバーでもある彼は、フォーラ ムが生まれた経緯について説明した。
「カシミールをめぐって激しく対立していた九〇年代の初め、私 は大統領、首相以下インドとパキスタンの政治指導者と個別に会っ て話し合った」
「個人のレベルでは、だれもが『両国の関係をよくしたい』と口 にするんだよ。ところが、それを公衆の面前では言えない。言うと 政治的支持が得られないと思ってしまう。弱いんだね」
両国間の政治的対話がないことで、市民の対話まで閉ざされてき た。これではいつまでたっても関係改善は望めない。ならば市民の イニシアチブで対話を始め、環境づくりをしよう。環境が整えば、 政治家たちがそのことを公言し、政策に反映しても政治的支持を失 うことはないだろう。
「政治指導者にそう確信させるまでには、時間がかかるかもしれ ない。でも、平和に向かって民衆をリードする力が彼らになけれ ば、たとえ長い道のりのように見えても、これしか方法がないんだ よ」
ニューデリーの北八十キロの小さな町で生まれ、四七年の分離独立 前にラホールへ。五四年、米国アイオワ州の大学で博士号(土木工 学)を取得。帰国後、ラホールのエンジニアリング大学で教えた。 が、六二年にユ・ハーン軍事独裁政権が出した戒厳令に抵抗したた め大学を追放された。
六七年、パキスタン人民党(PPP)の結成に参加。七一年の第 三次印パ戦争敗北後に誕生したズルフィカル・ブット政権の下で三 年間、蔵相を務めた。七七年以後は、直接政党とはかかわりがなく なったという。
「三度の軍事政権下で六、七回逮捕された。ひどい拷問を受けた 時もね…」。そんな体験が、人権擁護活動へと駆り立てる。「英帝 国主義の植民地時代と同じように、一部の人々が大多数を支配する 南アジア諸国では、平和の創造と民主主義を求める動きは切り離し て考えることはできない」と強調する。
そんな精神に基づいた人民フォーラム。だが、その船出は容易で はなかった。
九四年九月、印パ合わせ二十四人がラホールに集まった。今の時 期に平和を持ち出しても、両国の主流派からは「利敵行為になるだ け」「非愛国者」と非難されるだろう。その圧力に押しつぶされる のではないか…。強い懸念が出された。
「でも、そんな愛国主義や安全保障の考え方を正していかねば状 況は変わらない」と、最後には参加者の意見が一致した。
翌年二月、ニューデリーで第一回人民フォーラム大会が開催され た。学者、人権活動家、労働運動家、芸術家、ジャーナリスト、元 最高裁判事…。双方からほぼ百人ずつが参加した。
パキスタンでは参加者にいろいろと圧力がかかった、という。 「良識ある英字紙でさえ、『国益を損なう行為』と私たちの行動を 批判した。でも、とにかく全員がビザを取得し、デリーに集った。 それだけでも、半世紀近い印パの対立の歴史にとって画期的な出来 事だった」と振り返る。
戦争、非軍事化、カシミール問題、宗教的非寛容、教育改革、文 化交流…。参加者は二日間、多岐にわたる問題を熱心に討議した。
非公式の場を含め、会場には相互信頼と友情の精神が満ちてい た、という。「ここから何かが生まれる」。ハッサンさんはそう予 感した。