不信・緊張・軍拡に拍車/危うい抑止論


「インドへの不信の根深さが、パキスタン人に核抑
止力の矛盾を見えにくくさせている」と話すアブド
ラ・ナイヤーさん
(イスラマバード市)

 積極的核保有論者はむろん、インド、パキスタンの多くの国民が 自国政府の「核オプション」を支持する中で、印パ間の軍縮への道 は容易に見えてこない。「恐怖の均衡」に基づく平和維持…。が、 そんな平和に疑問を抱く人々もいる。彼らを通して軍縮への視点と 可能性を探る。

 (田城 明編集委員、写真も)

 パキスタンの首都イスラマバードの各国大使館が並ぶ閑静な道路 を抜けしばらく走ると、カイゼ・アザム大学院大学の広大なキャン パスが広がる。昨年十月半ば、その一角にある研究室で物理学教授 のアブドラ・ナイヤーさん(52)に会った。

 「被爆地の広島の記者には驚きかもしれないけど、パキスタンで もインドでも多くの国民が核抑止力を信じている。実に憂うべき状 況だよ…」

 自国の核兵器開発に反対を唱える少数派のナイヤーさんは、重い 口調で言った。ロンドン大学で博士号を取得した一九七三年以来、 この大学で教壇に立つ。

 「私はいくつかの理由から核抑止論は間違っていると考えてい る。その一つは、南アジアの社会状況が非常に不安定で、常に緊張 をはらんでいることだ」。こうした状況下で核抑止に頼るのは、あ まりにも危険に過ぎる、という。

 冷戦時代に厳しく核対峙(じ)した米国と旧ソ連。二つの国の間 には、大陸間弾道ミサイル(ICBM)を使用してもなお、核弾頭 が相手国に届くまでに十分から十五分の時間的余裕があった。「そ の余裕が政策決定に当たる政治指導者や軍幹部にわずかなりとも冷 静さを与えた」

 しかし、隣国同士の印パ間ではその距離がないため「政策決定者 の心理は、一層先制攻撃の誘惑に駆られやすくなる」と分析する。 「米ソ間で核実験は辛うじて回避できた。でも、印パ間でそれが機 能するとの保証はどこにもない」

 科学者らしく理路整然と語る彼は、さらに核抑止論の問題点を指 摘した。

 「互いに核兵器を保有すれば、両国間の不信と緊張は高まる。決 して減じることはない。そればかりか、核抑止という誤った安全保 障の考え方が、印パ両国に冒険的な政策を取らせてきたのだよ」  パキスタン最大の都市カラチを中心にしたシンドゥ州での人種対 立。インド政府は、インド側からの移住者でつくる政治グループへ の支援を通じてパキスタン社会に一層混乱をもたらしている、とい う。

 一方、パキスタン政府はインド側パンジャブ州の少数の分離独立 派のシーク教徒や、ジャムー・カシミール地方の自治や独立を求め るイスラム教武装グループを支援。インド社会の宗教的、人種的対 立を扇動している、とも。

 ナイヤーさんは、これを印パの「代理戦争」と呼ぶ。こうした状 況が生まれるのも、「核抑止力が働いているから、少々敵対行為を しても全面戦争にはならない。そんな思い込みが双方にあるから」 と見る。

 核抑止力が働くには、自国の「核兵器体系」に高い信頼性がなけ ればならない。核弾頭ミサイルやジェット戦闘機などの運搬手段を 含め、常に敵対国より優位であるか、対等であることが求められ る。

 「でも、米ソがそうであったように…」と、ナイヤーさんはため 息交じりに言った。「その信頼性は常に相手国によって決まる。原 爆を五個、十個持ったからと言ってそれで安全ということにはなら ない。核保有は必ず軍拡競争につながってしまう」

 通常兵器を含めての軍事費負担の増大、印パ間の不信と緊張の高 まり…。

 「こうした事態になれば、後戻りが利かなくなる。その前に何と か方向転換させなければ…」。ナイヤーさんの言葉には、焦りと戸 惑いがにじんでいた。


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