スパイ容疑などの罪を晴らすため、法廷で闘い勝訴した ボンベイ高裁前に立つブディッヒ・スバラオさん する (ムンバイ市) |
「核プログラムを取り巻く状況には、秘密主義と異論排除の権力 体質がはびこっている」。元インド海軍大佐で核技術専門家のブデ ィッヒ・スバラオさん(56)は、自ら闘い、身の潔白を明かした分厚 い裁判資料を前に言った。
ムンバイ(旧ボンベイ)市中心部にほど近いガンジー記念館。そ の一室で彼は、一年八カ月に及ぶ苦しい獄中生活を含め、「核特権 階級」にある人々から受けた弾圧の実態を語った。
一九八七年十月、海軍を早期退職し、コンピューター関連のコン サルタントをしていたスバラオさんは、翌年五月、米国へのビジネ ス旅行のためボンベイ国際空港へ向かった。彼はそこで地元警察に 逮捕された。
「何の容疑か説明のないまま、私の知らないうちにインド各紙に 大々的に報道されていた。『原子力と防衛に関する機密文書を米国 へ持ち出そうとして空港で逮捕された』とね…」
彼のスーツケースに入っていたのは、自身が設計した原子力潜水 艦設計に関する論文だった。むろん機密扱いではなく、国内の図書 館で自由にコピーが見れた。
「すべてはバーバ原子力研究センター(BARC)と原子力庁 (DAE)が仕組んだたくらみだった。彼らは一度も表に出ること なくね…」
スバラオさんは逮捕劇が起きた背景をこう説明する。
七六年、彼は原潜設計のため原子力研究の中枢機関であるBAR C(ムンバイ郊外)へ海軍から派遣された。ここで三度にわたりB ARCの科学者が作製した原潜設計を「欠陥がある」と指摘。八〇 年にはインディラ・ガンジー首相(当時)の前でも証言した。その 結果、首相は原潜の推進用原子炉建造に必要な膨大な予算を付けな かった。
「私は科学的におかしいと気付いたことを正直に口にした。で も、私の行為はBARCの科学者の顔に泥を塗ったばかりか、金ま でもぎ取ってしまったということになった」
逮捕一カ月前の八八年四月、彼はラジブ・ガンジー首相(当時) から「原潜建造に戻ってきてほしい」と、直接電話を受けた。
「逮捕されたタイミングから言っても、私が原潜開発に再びかか わることなどBARCの科学者には絶対許せなかったのだろう」と スバラオさんは言う。
刑務所では多くの嫌がらせや拷問を受けた。しかし「かろうじて 生き延びた」という彼は九〇年一月、二十カ月ぶりに釈放された。 裁判では刑務所内で学んだ六法全書で弁護士を立てずに闘った。九 一年十月、ボンベイ高裁で、二年後には最高裁でも無罪を勝ち取っ た。
「私は自身の体験からBARCなど原子力機関の閉鎖体質を嫌と いうほど知った。彼らは原子力エネルギー法などを盾に一切の批判 を許さない」とスバラオさん。
それは原潜に限ったことではない。「なぜ原発の稼働率が悪い か、なぜ事故が頻繁に起きるのか…。平和目的に使っているはずの 原発すら外部のチェックを受けさせない」
隣の国パキスタンでも、原子力体制批判の困難さを一再ならず耳 にした。広島、長崎の被爆五十周年の九五年。物理学者のディア・ ミアンさん(45)が編集者となり『パキスタンの原爆と安全保障研 究』と題する本を出版した。「原爆保有が決して、パキスタンの安 全保障を高めることにつながらない」とさまざまな角度から核抑止 論に疑問を投げ掛けていた。
出版社捜しに苦労した末、ラホールの小さな出版社が、当局の圧 力に屈せず発行に踏み切った。ところが、従業員の多くが逮捕さ れ、今も一人は刑務所に入れられたままだという。
核にまつわる秘密主義。異論排除もそんな体質と深いつながりが あるのだろう。「インドやパキスタンでは、この体質が直接、間接 に核抑止論を支える結果にもつながっている」。スバラオさんやミ アンさんの共通した思いである。