ソ連の核実験に抗議し、森滝市郎さん(前方に顔を向け た左から2人目)らと一緒に原爆慰霊碑前に座り込むシ ャルマさん(同3人目) (平和記念公園、1987年8月4日撮影) |
「米中央情報部(CIA)から金をもらって反インド活動をして いる」。ジャワハラル・ネール大学院大学の内外にこんなうわさを 立て、人格攻撃でディレンドラ・シャルマさん(64)のキャンパス追 放を謀った大学と政府当局。だが、彼は弾圧に屈せずに学内にとど まり、講演、執筆、国際会議参加など反核活動を続けた。
そんなシャルマさんが、一九八七年八月、日本の原水禁団体の招 きで初めて広島を訪れた。 「同居中の九十九歳の父が危篤状態で ね。父のそばにいるべきか日本を訪れるべきか随分迷った。でも、 私は後者を選んだ。ヒロシマへの巡礼をどうしても果たしたかった …」
東京での会議を終え広島へ。すぐ原爆資料館を見学し、平和記念 公園を巡った。原爆投下後の廃虚の市街地、熱線で焼け皮膚が盛り 上がったケロイド…。被爆地で見る一つ一つの資料が、彼の心に訴 え掛けてきた。
平和公園の一角に建つ「原爆の子の像」。十二歳の時、白血病で 亡くなった佐々木禎子さんを記念する像の前でシャルマさんは長く 立ち続けた。
「サダコちゃん…」。彼はいつしか少女に呼び掛けていた。「私 はあなたの町へやって来たよ。あなたの無念の死が、無数の折り鶴 (づる)となって平和の願いを世界に広げている。今はもうこの地 球上の人も自然もみんなヒバクシャ。核のない平和な世界目指し、 私も一羽折り鶴をささげます…」
シャルマさんの目から涙があふれ出た。ロンドンでの「ラッセル ・アインシュタイン宣言」(五五年)の場に立ち会ってから三十二 年。金も権力も名声もない。いや、求めなかった。でも、人間とし ての自分の歩みの確かさを被爆地で確認した。
八月二日にあったソ連の核実験。四日正午から故森滝市郎さん (九四年、九十二歳で死去)らと一緒に、原爆慰霊碑前での抗議の 座り込みに加わった。その日、父スレンドラさんが他界した。「長 崎の原爆の日が終わるまでニミー(妻ニルマラさんの愛称)には連 絡しないと言って出発した。父の死を知ったのは十日、東京から帰 国を前にしてだった」シャルマさんは父の最後をみとれなかったこ とを残念に思いながらも、悔いはなかった。安らかな死を迎えたと いうことを知るだけで満足だった。
「広島を訪れたおかげで日本の『反核の父』と呼ばれていた森滝 さんとも出会うことができた。『愛の連鎖反応が核の連鎖反応に打 ち勝つ』と言った彼の言葉は今でも忘れられないよ」
廃虚から復興を遂げた広島や長崎の街並みにも強い印象を受け た。英国独立から四十年が過ぎた自国の現実…。「そこに目を向け ざるを得なかった」とも。
シャルマさんには「日本人の不屈の努力の証し」と映った広島や 長崎の復興の姿。しかし核保有国をはじめ、インドやパキスタンの 原爆推進派には「核戦争が起きても人間は生き延びられるのだと、 復興ぶりが推進正当化に利用されている」と、彼はため息交じりに 言った。
「残念ながらインドをはじめ外国では、原爆後遺症によって今も 被爆者が苦しんでいる現実や、社会的差別を受けてきた実態などは ほとんど知られていない。核戦争の本当の実相が伝わっていないの だ」
最近、インドでは以前にも増して核保有国として名乗りを上げる べきだとの声が高まっている。
シャルマさんはその動きに警鐘を鳴らし、核抑止論に基づく「過 った道を歩まないように」と、新聞紙上などで説き続けている。 「インドやパキスタンで原爆展を開いたり、被爆者らの声を直接 両国民に伝えることができれば、私の一文よりかははるかに効果が 期待できるのだがね…」
シャルマさんはこう被爆地へエールを送った。