妻子支えに信念を貫く/異端者扱い


かつて教壇に立っジャワハラル・ネール大学院大学を
訪れたシャルマさん。反核運動のため多くの弾圧を受けた
(ニューデリー市)

 インドの反核運動の創始者となったディレンドラ・シャルマさん (64)は、ジャワハラル・ネール大学院大学(ニューデリー)科学政 策研究センター長として、学生に講義するだけでなく、インド各地 を講演に駆け回った。

 「SANE核政策委員会」には、インディラ・ガンジー首相のい とこで作家のナヤンタラ・セーガル女史(70)や元外交官、法学者ら 著名人二十四人が名を連ねていた。しかし、実際に核施設のある田 舎を訪れ村人と話すのは、シャルマさんと放射能汚染問題など欧米 の英語文献を数多く読んでいた学生ら若者だった。

 「インド人口の七〇%以上が田舎に住んでいる。そのうち、六〇 −七〇%は文字が読めない。そんな人たちに色もにおいもない放射 線の恐ろしさや、半減期が二万年以上のプルトニウムの危険を語っ ても最初はなかなか理解されなくて…」

 田舎に入るほど、社会基盤整備の遅れが目立った。でこぼこの未 舗装道路、無医村、電話連絡さえ取れない現実…。「これで大量の 放射能漏れ事故でも起きれば、何百万人の住民避難をどうすればい いのか…」

 放射性廃棄物を含め高度な管理技術を必要とする核エネルギー。 一方でインドにはまだ十分開発されていない水力発電や、ほとんど 手が付けられていない太陽熱、風力発電の可能性がある。田舎の現 実に直面するにつけシャルマさんは「より安全で継続使用可能なエ ネルギー源の開発を」との思いを強めた。

 運動の中で直面したもう一つの困難は「原子力産業で働く専門家 や大学などの研究者らを引き入れることだった」と振り返る。情報 を外部に漏らしてはいけないとの原子力エネルギー法による縛り。 核政策に異論を挟むことは「ほとんど職を失うに等しい」とも。

 インドでは、大学など高等研究機関の科学研究費の九五%以上が 政府支給。研究費を確保し、地位を守るには疑問を抱いても口をつ ぐんでおくのが一番賢明なのである。

 シャルマさんらの活動は、困難を伴いながらも一九八三年ごろに は全国主要都市の知識人や学生らに広がって行った。毎年八月六日 に、ニューデリーなど各地で「ヒロシマ・デー」を開くようになっ たのもこのころからだという。

 しかし、一方で「シャルマ封じ」も厳しくなった。八三年十一 月、ガンジー首相は英国連邦国家首脳会議をニューデリーで主催し た。その首脳にSANE委員会の名で、英国連邦に属するすべての 国が「非核地帯宣言」をするよう嘆願書を提出した。

 それから一カ月とたたない十二月初旬、ネール大の理事会はシャ ルマ准教授の社会学部・科学政策研究センター長から言語学部への 異動を承認、センターは閉鎖された。

 「あらゆる手続きを踏んで抗議した。でも、結果は変わらなかっ た。政府や原子力委員会(AEC)の強大な圧力が働いていたから ね…」

 彼に追い打ちをかけたのは「米情報部(CIA)の回し者」との うわさだった。大学の教官も学生も、シャルマさんと距離を置き、 言葉さえ掛けなくなった。

 米国では「共産主義者」のレッテルを張られ、母国では「CIA エージェント」と呼ばれての人格攻撃。

 「私はガンジー首相の同族で、インドの駐英大使などを務めたネ ールファミリーの一人に会った。その彼があからさまに言ったもの だよ。『あなたは権力にチャレンジした。その報いをいま受けてい るのだ。われわれネール一族に対してあなたは、何一つできないの だ』とね…」

 シャルマさんを支えるのは、インドへの帰国をしぶった妻のニル マラさん(58)と成長した三人の息子だった。  「正しいことのために働いているのだから…」。家族の一言がう れしかった。


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