権力に屈せず記事公表/原子力政策批判


1969年に稼動したインド初の米国製タラプール
原発。施設内には使用済み核燃料の再処理工場もある
(タラプール市、1989年撮影)

 インドは英国から独立した翌年の一九四八年、ジャワハラル・ネ ール首相の下に原子力庁を設立した。その後の歩みは、八〇年代に ディレンドラ・シャルマさん(64)が原子力機関の内部調査に基づく 批判記事を発表するまで、部外者には「禁断の園」だった。

 「原子力体制を批判的に見直し、その結果を報告してほしい」。 七七年に誕生した人民政府から調査を依頼されたシャルマさんは、 七八年から七九年にかけての半年間、自由に原子力施設を訪れ安全 面などについて調査した。

 しかし、八〇年に再びインディラ・ガンジー政権が登場すると、 彼の核施設訪問は禁止された。

 「そればかりか…」と、シャルマさんは語気を強めて言った。 「この間に集めたいかなる情報も、公表前に必ず内容を当局に提出 するよう要求された。原子力エネルギー法を盾に…」

 政府の要求はシャルマさんにとって「脅し」以外の何ものでもな かった。巨大な国家権力を感じたという。

 六二年に生まれたこの法は、核情報に対する市民のアクセスを禁 じるあらゆる法的権限を当局に与えていた。既存の核施設をはじ め、計画中のものも、核エネルギー生産活動に関して「何人もいか なる情報の公開、入手、入手の企てもできない」と明記されてい た。

 八〇年八月、シャルマさんは調査内容の一部を新聞に公表。既存 の核権力体制にチャレンジした。

 「安全面における核施設の管理体制の欠陥や、財政にまつわる不 正使用などを指摘した。インドのエネルギー政策が、核専門エリー トに支配されつつあるともね…」

 この時の記事が、インドで最初の核政策批判となった。当時、イ ンドには米国製のタラプール原発など四基が稼働。プルトニウムを 取り出す再処理施設をはじめ、核燃料サイクルが整っていた。西暦 二〇〇〇年までに一万/メガワット/の発電量を計画。一基二百万 /メガワット/の発電量としても、目標達成には五十基を必要とし た。

 米国では七九年のスリー・マイル・アイランド原発で起きた炉心 溶融事故を契機に、原発建設が大幅に縮小され、スウェーデンでも 二〇二〇年までに十二基の原発の廃止を国民投票で決めたばかりだ った。

 「私はすぐに秘密情報部に監視されていることを知った。でも、 核体制の実情を表に出し、社会の厳しい評価を受けない限りまっと うな核政策など望めない」。身の危険を感じながらも、「科学政策 専門家」としての自負と信念がシャルマさんを支えた。

 八一年には、安全保障に関するインド政府のスポークスマンが、 核保有の必要性をマスコミなどで公然と訴え始めた。

 この時もただ一人、反対の声を上げた。「核保有は狭量な愛国心 の表れに過ぎず、インドの安全にはつながらない。本当の安全保障 政策は、何千万という国民に生活必需品を提供し、そのために社会 や産業を発展させることである」と。

 シャルマさんは、核保有の必要性を説き、核エネルギーの大幅増 を目指す政府キャンペーンに対抗するため、八一年六月に「SAN E核政策委員会」を結成し、「もっと正気な(SANE)核政策 を」と、キャンペーンを始めた。

 結成二年後には、独自調査に基づく『インドの核特権階級』を出 版。原子力政策を批判した国内初の本として反響を呼んだ。

 「新聞社などに私の記事を扱わないようにとか、当局からの嫌が らせはいろいろあったよ。一方でキャンペーン活動を通して核につ いての科学的知識を市民に広める困難も随分味わったね…」

 多くの試練に直面しながら、シャルマさんの反核の闘いは続い た。


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