地下活動で人脈 道開く/緊急事態令


インドが実施した初の核実験で生まれたクレーター。
爆発の規模はTNT火薬10数キロトンと推定されている
(ラージャスタン州ポカラン、1974年5月18日)

 「インドでいい仕事を見付けたのかい?」。ディレンドラ・シャ ルマさん(64)の帰国を知った米国の友人たちは、だれもがこう尋ね た。

 「いや、まだだよ。でもインドに帰れば何とかなるさ」  一九七二年、シャルマさんは友人たちにこう言い残し、妻のニル マラさん(58)と小学校へ通う三人の息子を連れ、母国へ向かった。

 だが、現実はそれほど甘くはなかった。八年ぶりの帰国。頼れる 知人もいなかった。ニューデリーの北約二百五十キロのデラデューン 市での借家住まい。家族全員がインドの新しい環境に適応するのが 精いっぱいだった。

 「二年間は定職に就けなかった。少しの預金と、コメンテーター としてのテレビ出演、新聞・雑誌への寄稿、講演などの収入で何と かやっていた」と言う。

 しかし「哲学・科学・社会」を一つに結び付けた新しい発想に基 づく彼の発言や行動は注目を集めた。二年後、ジャワハラル・ネー ル大学院大学(ニューデリー)社会学部に「科学政策研究センタ ー」が新設されると、シャルマさんはセンター長として招かれた。

 それから数カ月後の七四年五月十八日。インド初代首相のネール 氏を父に持つインディラ・ガンジー首相は、ラージャスタン州ポカ ランの砂漠で、インド最初の核実験を実施した。

 「ショックだったね。そのころはまだ、インドの核開発プログラ ムについて十分知識がなかったから…」

 彼は自費で発行を始めた季刊誌『哲学と社会行動』や各地での講 演を通じて、核実験を痛烈に批判した。

 「この核実験はインドの民衆をごまかすものだ。国民に必要なの は、食料や安全な水、病院設備の確保であり、核兵器開発は国民の 福祉に何の役にも立たない」と。

 シャルマさんは、この核実験の背景には二つの目的があったと見 る。一つは、インドの核開発能力を世界に示し、科学技術水準の高 さを誇示すること。もう一つは私的選挙目的に公務員を利用して背 任行為の罪に問われ、人気のなかったガンジー首相への国民の目を そらせ、政権浮揚を図るためである。

 「当時、彼女はあらゆる権力を欲しいままにしていた。むろん、 原子力開発も首相の完全なコントロールの下にあった」

 ガンジー首相は翌年六月、「緊急事態令」を発令。軍と警察を指 揮下に置いた。新聞・放送の検閲、集会の禁止、野党や労働組合指 導者らの一斉逮捕…。民主主義を封殺する政策が次々と取られた。  「外国の勢力がインド政府を陥れようとしており、われわれは危 機的状況にある」。ラジオとテレビで国民に緊急事態令を発した理 由をこう説明した。

 首相はその五日前に、最高裁で背任行為などの罪で有罪判決を受 けていた。「緊急事態令は強権でそれらをすべて押しつぶし、政権 を維持するためだった」と、シャルマさんは言う。

 緊急令の期間中、彼は大学で講義を続けた。その一方で、逮捕者 家族の連絡など地下活動にも加わった。ガンジー政権追放を目指し た二年近くの活動。その中で、野党指導者らとも接触する機会が生 まれた。

 「それがその後の私の核政策研究に大きな役割を果たすことにな ったんだよ」

 七七年三月、国民会議党のガンジー政権は崩壊し、ムラージ・デ サイ首相の下、連立による人民政府が誕生した。シャルマさんは、 地下活動を通して既に知己となった閣僚らの支持を得て、これまで だれも手掛けたことのない原子力機関内部の政策点検を試みた。


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