差別に抗し公民権運動/米国生活


ミシガン州立大学の講義でベトナム
反戦を訴えるシャルマさん
(ミシガン州ランシング市、1967年)

 米国ウィスコンシン州マディソン市にあるウィスコンシン大学。 ディレンドラ・シャルマさん(64)は、一九六四年九月、准教授とし て新しい生活のスタートを切った。

 三歳を頭に三人の息子の子育てに追われる妻のニルマラさん(5 8)。多忙とはいえ、彼女もモダンな生活環境に幸せを見いだしてい た。

 一年後にはより待遇のいいミシガン州ランシング市の州立ミシガ ン大学に移籍。研究分野は、観念的な哲学から発達する科学技術が 社会にどう影響を及ぼしているかという「科学政策」へと広がって 行った。

 「広島、長崎に原爆が投下されるまで科学の発展を批判的にとら えるコースなど大学にはなかった」。こう言うシャルマさんの研究 は、米国によるベトナム戦争拡大の時期と重なっていた。「ベトナ ムでは核兵器は使われなかった。でも、科学技術の発展の所産であ る強力兵器が使用されていた」

 講義を通じてのベトナム戦争批判。米国市民との街頭での反戦デ モ…。故マーティン・ルーサー・キング牧師率いる米国内の黒人差 別撤廃を求める公民権運動にも深くかかわった。

 シャルマさんは、インドではカースト最高位のブラーメン(司祭 者層)に属する。だが、英米ではそのことは「何の意味も持たなか った」と言う。同じ「カラード(有色人種)」として差別を受ける 側であった。

 「欧米ではインド人かパキスタン人か、バングラデシュ人かスリ ランカ人か、ヒンズー教徒かイスラム教徒か…その違いは何の意味 も持たなかった。同じ『ダーティ・エイジアン』という目でしか見 られなかった」

 米国滞在一年後の六五年九月、第二次印パ戦争が勃(ぼっ)発し た。シャルマさんはテレビニュースを見ながら思った。「多くの文 化を共有している両国民がなぜ憎しみ、戦うのか…。米国にいる と、その現実がとても愚かに見えたものだ」

 国家を超え、人類的立場から発言し、行動し始めたシャルマさ ん。ガンジー、バートランドラッセル、キング…。非暴力直接行動 で社会変革を求める彼らとの出会いは、暴力や戦争を否定する彼の 信念を強めた。

 だが、シャルマさんの反戦や公民権運動への参加は「反米的」と 米連邦捜査局(FBI)からマークされ、やがて「共産主義者」の レッテルを張られる。七〇年には、既に認められていたフルブライ ト研究奨学金まで突然打ち切られた。

 さまざまな弾圧に対し大学の同僚らがシャルマさんを擁護し、最 後までサポートしてくれた。奨学金に代わる研究費は、学内から支 給された。

 「同僚たちの支援がうれしかった。でも、一方で米市民権を持た ない悲哀も味わった。この国では人に依存しなければならないんだ よ」

 ブラーメン、大学教授、米国で教えた実績…。母国であれば弾圧 にも自分を守れる。人のためにもより有効に役立てるに違いない。  インドなど南アジアには、貧困や封建制度など克服すべき多くの 課題があった。が、理想像を描いていた米国にも人種差別があり、 過った戦争で多くの人々や環境を破壊している。「決して完ぺきで はないのだ」と、シャルマさんは思った。

 七一年、彼はニルマラさんに帰国話を持ち出した。

 「あなただけ帰ったらいいでしょう。私は子どもとこちらで暮ら すから」

 「それじゃ、離婚するのと同じじゃないか」

 「……」

 なじめなかったインドでの三年間の生活。その体験を思い出す と、容易には夫に同意できなかった。

 「あの時はほんとに夫婦の危機だった」。シャルマさんはそう言 って妻の顔を見やった。

 「米国では夫は幸せじゃない。それはよく分かっていたわ。結 局、私の方が折れたのよ」。ニルマラさんはいたずらっぽく言っ た。


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