結婚式当日のシャルマさんとニルマラさん。「式 はとても簡素だった」 (ロンドン市、1960年2月6日) |
インド人を両親に持つニルマラさん(58)と知り合って三年。ディ レンドラ・シャルマさん(64)は一九六〇年二月、彼女と結婚した。
翌年四月、ロンドン大学から念願の博士号(哲学)を取得。翌日 には、妊娠六カ月の妻を連れロンドンからボンベイ(現ムンバイ) への乗船客となっていた。彼にとって七年ぶりの帰国。が、ロンド ンで生まれ育った彼女には初めてのインド訪問だった。
「博士号を取得すれば早く帰国し、インドの社会発展に貢献した い」。青年の心は理想に燃えていた。「それに、ニミー(妻の愛 称)には最初の子どもをインドで生んでほしかった。われながら随 分愛国的だったと思うね…」
「赤ちゃんは施設の整ったロンドンで生むように」。ニルマラさ んは家族の助言に後ろ髪を引かれながら、熱血漢の夫について未知 の地へ旅立つしかなかった。
ボンベイからニューデリーまで列車で三十六時間。気温一〇度前 後の英国から三〇度以上のインドへ。当時の列車に空調設備はな い。「列車の旅だけで、私はすっかり参ってしまって…」と彼女は 振り返る。
ところが、オールドデリー駅のプラットホームには、まるで有名 スターか大物政治家でも歓迎するように何千人もが待っていた。音 楽隊の鳴り物入りである。
「私の父親は町でとても尊敬されていた。それに右翼の政党指導 者が『レセプションを準備している』と待ち構えていたんだよ」
六〇年代はまだ英国の名の知れた大学で博士号を取得するインド 人は少なかった。大量動員を掛け「ビッグマン」を迎えるのは、一 種のインドの伝統でもあった。
「私はもう政治家になるつもりはなかった。ニミーがとにかく押 しつぶされないようにと、そればかりが気になって…」
二人は人込みをかきわけ、どうにか馬車に乗り込み、六キロ離れた 父親の住むシャードラーの町へ向かった。
だが、着いた家には電気も、真っ当な水やトイレの設備もなかっ た。「いきなりジャングルに放り込まれたって感じね」。ロンドン 育ちのニルマラさんには、余りにもカルチャーショックが大きすぎ た。
インドに着いて一カ月もたたないうちに彼女は肝炎などを患い寝 込んでしまった。暑さから逃れるため、ヒマラヤ山系のふもとの町 ネニタールへ。ホテルで仮住まいしながら、六月その町の病院で長 男を生んだ。
「ホテルと言っても雨漏りはするし、サソリはいる。近くにベビ ーフードもミルクもない。私はインド料理が食べられずに、体力が なくなる一方。ほんとにこのまま死んでしまうのではと思ったわ」 彼女にとってインドの現実は余りにも過酷だった。しかし医師ら の手当てを受けどうにか体力を回復。夫が職を見付けた大学のある ハリアナ州クルックシェットラー市に移り住んだ。
シャルマさんは誕生したばかりの大学に哲学科のコースを新設、 授業を進めた。「でも、大学建設に伴ってわいろを受け取る学長の 不正を指摘したり、学生のひどい食事の改善を要求したりしてはに らまれてね…」
キャンパス外でも、道路や排水の汚れから、警官の不正まで黙っ て見ておれなかった。「町をみんなできれいにしよう」。住民に呼 び掛けても一緒に働く者はいなかった。
「私はとても失望した。理想を夢見る余り、市民意識の稀薄さな ど第三世界の後進性とでもいうべきインドの現実を忘れてしまって いた」とシャルマさん。
「子どもの将来の教育のためにも先進国へ移り住もう」。妻の説 得に抵抗するだけの自信がなかった。
六四年、米国の大学に職を見付けたシャルマさんは、家族ととも にインドをたった。彼にとってそれは「挫折の旅立ち」でもあっ た。