ラッセルが人生の師に/英国留学


英国の留学に旅立つその日、乗船を前に父親のスレ
ンドラさん(左端)らの見送りを受けるシャルマさん
(左から2人目) (ボンベイ、1953年12月23日)

 インド、パキスタン分離独立時の血なまぐさい「市民戦争」が収 まり、ジャワハラル・ネール首相の下で新生国家建設の歩みを始め たインド。

 十代後半に入ったディレンドラ・シャルマさん(64)は、マハトマ ・ガンジーの死を契機に「人間性」の意味をより深く考えるように なった。十九歳で大学を卒業。やがて「インドの国家建設に役立ち たい」と、英国留学を思い立った。

 「ガンジーやネール、ボースらインド独立を求めて闘った指導者 は、いずれも英国留学経験者だった。私も西洋の新しい情報や知識 を身に着けたかった。その方が影響力が強まるだろうと思って…」

 しかし、清貧を旨として生きる父に留学させる財力はなかった。 二年間家庭教師をして船賃を稼いだ。独立から六年後の一九五三年 十二月、留学を喜んでくれた父親らに見送られ、ボンベイ(現ムン バイ)を後にした。

 翌年一月、希望に夢を膨らませ英国の土を踏んだ。だが、シャル マさんを待っていたのは、真冬のロンドンの自然の厳しさばかりで はなかった。「カラード(有色人種)」に対する大ぴらな差別の現 実だった。
 「大学に入学するには、まず授業料をためなければならない。で も、どこの職場も『カラードはお断り』の時代。授業料どころか、 食いつなぐのがやっとだった」

 しかしやがて食品工場の皿洗いに職場を見つけ、三年後にようや くロンドン大学の修士課程(哲学)に正式入学した。「多くの屈辱 を味わったよ。でも、差別や偏見と闘う中で、人間的に随分鍛えら れたね」

 シャルマさんは「それに…」と、言葉を続けた。「入学前に私の 人生を決定づける出来事があった。水爆開発など核開発競争が人類 に重大な危機をもたらせていると警告したラッセル・アインシュタ イン宣言を発したその場に立ち会ったことなんだ」

 五五年七月九日。英国人の数学者で哲学者のバートランド・ラッ セル卿は、この日、アルバート・アインシュタイン博士やライナス ・ポーリング博士、湯川秀樹博士ら九人のノーベル賞受賞者を含む 十一人の連署で世界に向け核開発競争の危険を訴えた。と同時に著 名な科学者による問題解決のための国際会議(後のパグウォッシュ 会議に結実)を呼び掛けた。

 「ラッセルが読み上げた宣言文の『人間性を思い出しなさい。そ して他のすべて(の違い)は忘れなさい』との言葉が、私の心に響 いた」

 深い感動を覚えた彼は、その後ラッセルのすべての著作を読破。 第一次世界大戦への抗議デモで逮捕され、ケンブリッジ大学教授の 職を追放された事実など、知性と良心に基づくラッセル卿の勇気あ る発言と行動に強く引かれた。

 「ラッセルから反核の精神と、その底に流れる人類愛を学んだ。 彼は私にとってのグル(先生)なんだよ」

 シャルマさんは大学でインド哲学と西洋哲学の比較研究を続ける 一方で、英国で起きた「核軍縮キャンペーン(CND)」運動など に積極的にかかわった。

 五八年四月には、ロンドンから核兵器が貯蔵されているオールダ ーマストン基地までの、英国初の大規模な反核デモに参加。約七十 キロの道のりを、当時友達になっていた妻のニルマラさん(58)と一緒 に歩いた。

 シャルマさんはやがて、政治家を志すより学者の道を歩みたいと 思うようになった。「ラッセルが生きたように、私も著述や講演な どを通じて科学的な認識を社会変革に生かしたかった」

 博士号取得を目指しての研究、新たに得た英国BBC放送での仕 事、社会活動…。ロンドンでの多忙の日々は、なおしばらく続い た。


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