ガンジーの死が転機に/少年期


両親や次兄と一緒に記念写真に納まるシャルマさん
(右)。母親は撮影から約1年後、38歳で病死した
(ニューデリー市)

 ディレンドラ・シャルマさん(六四)は一九三二年六月、英国統 治下のミャンマーのマンダレーで生まれた。三人兄弟の末っ子。父 スレンドラさん(八七年、九十九歳で死去)はカースト最高位のブ ラーメン(司祭者層)で、サンスクリットの学者だった。当時、マ ンダレーの大学で教えていた。

 シャルマさんが四歳の時、ニューデリーに戻り、一家はやがて中 心部から六キロ離れたシャードラー町に落ち着いた。  父は説教師、大学講師、薬草治療医、そして英国からの独立を求 めるフリーダム・ファイターでもあった。

 「父の影響を受けて私は十歳のころから独立運動に参加した。ヒ ンズー至上主義者のジュニアで作る国民義勇隊(RSS)の一番若 いメンバーでね。大人の伝令役などを果たしていた」

 十代前半のシャルマさんのヒーローは、日本の支援でインド国民 軍を創設し英国軍と戦うチャンドラ・ボース将軍だった。「偉大な インド五千年の文明」を守るのは、ヒンズー教徒とイスラム教徒の 融和を説く、非暴力主義者のマハトマ・ガンジーではなかった。

 そんな少年の耳にも、広島、長崎への原爆投下のニュースが伝わ った。

 「とてもショックだったね。でも、私にとってのショックは、イ ンド解放を助けてくれている日本の敗北が決定的になったことなん だ」

 四五年八月、日本の敗北で第二次世界大戦が終わり、チャーチル 首相率いる英国保守党政権に代わって誕生した労働党政権は「イン ドの独立」を約束した。しかし、そのころインドではイスラム教徒 による分離独立国家を求める運動が一段と激しくなった。

 「四五年から四七年のインドは、激しい民族、宗教抗争で血で血 を洗う現在のボスニアやルワンダに似ていた。英国が去った後は、 法も秩序もなくなった。ヒンズー教徒とイスラム教徒は互いに猜 (さい)疑心にとらわれ、すさまじい数の人々を殺し合った」

 四七年八月十四日、インドよりも一日早くイスラム教に基づくパ キスタンが正式に独立した。それを契機に起きた大民族移動。ヒン ズー教徒やシーク教徒とイスラム教徒間の殺りくや略奪は一層凄惨 (せいさん)さを増した。

 シャルマさんの脳裏に焼き付いてしまった光景がある。パンジャ ブ州のアムリツァル駅でパキスタン側からやって来る難民たちの援 助活動をしていた時のこと。「到着するすべての車両が死体で埋ま っていたりしてね。悲惨な光景に私は、イスラム教徒への憎しみを 一段と募らせたもんだよ」

 ニューデリーをはじめ北インド各地では、ヒンズー教徒がイスラ ム教徒を虐殺した。この狂気の状態を鎮めることができたのは、七 十八歳になるガンジーだけだった、という。

 四八年一月半ば、ガンジーはニューデリーで印パ融和と平和回復 を願って断食に入った。「ヒンズー教徒たちは、彼が死なないよう にとようやく武器を置き、虐殺がやまったのだ」

 しかしそのガンジーは、それからほぼ二週間後の一月三十日、排 外主義の過激なヒンズー教徒の凶弾によって命を奪われた。

 彼の遺体は、ニューデリー市内を流れるヤムナ川の河原で火葬さ れた。「老人の死」を密かに喜んだシャルマさん。が、火葬場に向 かう百万人にも達する老若男女の弔問の列を眺めながら「なぜガン ジーはこれほど尊敬されるのか」と心をかき乱された。

 「私は思わず『邪悪な老いぼれ』と叫びたい衝動にかられた。で も、その瞬間、自分が抱いてきたヒンズー至上主義の狭い考えが間 違っているとの啓示を受けた。まさにその時に…」

 十五歳の少年はそれ以後、ある人種や宗教が他より優れていると の考えに戻ることは決してなかった。


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